評伝・あとがき(『山下長治郎歌集』)

1997年3月9日 初版発行 山下長治郎歌集刊行委員会


(サイト記)山下長治郎兄は1993年3月9日に死去、歌集はちょうど4年後の1997年3月9日に出版された。(1995年1月17日、阪神淡路大震災)



評伝

はじめに略年譜を記す。

1907(明治40)年12月10日、鹿児島県薩摩郡下甑(こしき)島村手打にて、父白瀬長一、母安乃の五男二女の三男として誕生。手打尋常高等小学校を優秀な成績をもって卒業後、台湾に渡り仕事に従事、のち大正末期、滋賀県膳所(ぜぜ)町に設立された旭絹織会社の募集に応じて就職。
1928(昭和4)年4月8日、日本同胞膳所基督教会(創立1915年)にて、牧師矢部喜好(きよし)より洗礼を受け同教会々員となり、青年会長として活躍。
1933(昭和8)年2月18日、膳所教会にて同教会員、山下わきゑと結婚。
わきゑは兵庫県神崎郡市川町甘地(あまぢ)の出身、幼少にして両親を失い、祖父母に育てられる。学業を終え、旭絹織の募集に応じ就職。路傍伝道に導かれ、膳所教会の設置する湖南文化学校家政科に学ぶ。同教会にて牧師矢部喜好より1931(昭和6)年10月4日洗礼を受ける。
長治郎は白瀬姓より山下姓となる。その頃夫婦して膳所教会馬場青年会館に居住、主事を務める。のち近江兄弟社に就職、同時に近江八幡教会に転籍。
1937(昭和12)年12月9日、長男一路誕生。
1939(昭和14)年、土屋文明に私淑し『アララギ』に歌を寄せる。
1941(昭和16)年4月12日、次男二郎誕生。
1944(昭和19)年3月14日、長女三枝(みつえ)誕生。
太平洋戦争末期、徴兵により日本陸軍姫路師団に入隊。内地勤務。この間家族はわきゑの郷里に疎開。
1945(昭和20)年、軍隊で知りあった高田一市の招きにより高田印刷に就職。住居を神戸市長田区野田町八丁目に移す。
1946(昭和21)年7月21日、教会籍を近江八幡教会より日本基督教団神戸教会に移籍。以後47年間、鈴木浩二、児玉浩次郎、岩井健作の三代の牧師と親交を持つ。
1947(昭和21)年1月3日、二女安子誕生。
1954(昭和29)年、神戸教会伝道師に就任した笠原芳光と親交を持ち、笠原を通じ赤岩栄、飯島宗享(むねたか)と交流する。この頃、高田印刷を辞し、岡部証券印刷に勤務。
1959(昭和34)年、神戸教会役員に就任、以後伝道委員長等を歴任。
1966(昭和41)年、学校法人コロンビア学院に理事長高田一市の招きにより就職、1987年80歳まで勤務。
1988(昭和63)年12月9日、胃を手術。1989年、神戸教会関係者による「快気祝い」の集いが開かれる。住居を神戸市垂水区歌敷山三丁目に移す。
1991(平成3)年、神戸教会々堂修復・別館建築特別募金委員長に就任、1億5千万円の募金目標を完遂。
1993(平成5)年3月9日、神戸市立西市民病院にて肺炎のため死去。86歳。同12日神戸教会々堂にて葬儀、司式・岩井健作、弔辞神戸教会代表・藤村洋、京都精華大学教授・笠原芳光。

薩摩隼人の風貌
風土は人柄に影響するという。東支那海の潮流に洗われる甑島は珊瑚の採取生産地、この島に育ったことが終生荒海に面をあげた男性的気質の濃い生き方となった。当時甑島出身で京都帝国大学で学んだ一青年がマルキシズムを標榜し、東京で飛行機から左翼のビラを撒いた。多感な長治郎は、捕囚の身となった同郷の士に心寄せて歌を詠んだ。この歌は後年長治郎を頼り関西に移り住み、交誼長年にわたる甥山下健一・妙美夫妻に「古き手帳」として託されていた。このたびの歌集の巻末に入れることにした。時代を偲ぶよすがでもある。長治郎は幼少より頭脳明晰、後年その思考思索において知識人であったが、学歴社会を柱とする日本の近代は長治郎にとって荒海であった。青年の多くが台湾に渡って警察官等に従事した甑島の当時について彼は決して語ることがなかった。しかしその苦しい経験が内面化され実存の彫りの深さともなった。

矢部喜好との出会い
山下が洗礼を受けた牧師は矢部喜好であることは年表に記した。矢部(1884-1935)は会津出身、中学校在学中家が破産し、セブンスデー・アドベンチスト教会でキリスト教に入信、1905年、日露戦争に際し信仰上の立場から非戦論を唱えて徴兵を拒否、禁錮二ヶ月の刑を受ける。後、渡米留学。基督同胞教会に入会、シカゴ大学神学部に学ぶ。猩紅熱を患い、その機、同じ病いで日本の琵琶湖畔で開拓伝道に従事していた青年宣教師 M.クリセウスが死去した出来事に心を打たれ、在日の宣教師 J.E.ニップの紹介により琵琶湖畔膳所で開拓伝道をはじめる。
 長治郎は矢部を偲び一文を残している。

「あの時代を積極的に生きていく意味を見出し得ず、羞恥、自己嫌悪といったやりきれない哀しい切実な思いで、この坂道を往来したことを思い浮かべた。…膳所の地に牧師として、日曜学校、農村伝道に精力的に活動した矢部先生との出会いこそ、私の人間形成への影響は決定的なものとなり、今日、私のあるのは、ひとえに矢部牧師の大きな信仰と愛によるものと、ここに大きく書き記したい」(『神戸教会々報』 1982年12月)

結婚
膳所教会員熊木昌夫は「石山駅の北側に大正の末期に出来た人絹会社に山下兄は勤めて居られ…兄は読書家で常に自分の考え、意向をハッキリさせて居られ、身の廻りの事についてもリアルな事と認識し理解し会得する性の人で…良き先達であった」(『膳所教会八十年史』)と述べている。山下わきゑは同書に「私共、故山下長治郎と私は多感な青年時代を膳所教会で過ごし、…そして恩師矢部先生のもとで信仰に導かれ、結婚いたしました。私にとって自分の人生の基盤をここで養われ…」と語っている。その時矢部喜好は「長さんとうまくやれるかな」と語ったという。長さんの気性を知ってのことだったろう。住まいには頓着がなく、戦後を長屋で暮らし生涯借家住まいに終始するなど、夫人の苦労は多々あったと察せられるが、うるわしい信仰の夫婦であった。

求道者
山下長治郎は永遠の求道者であった。西田天香に学び、親鸞に傾倒し、赤岩栄と共にイエスを追い、吉本隆明に従って思索した。神戸教会が夏季集会に荒井献を講師に招いたあと、次の一文を残している。

「キリスト者として、前衛歌人の一人としての岡井隆は、…一首に、”相対化されたる神はわんわんとむらがる蝿にたちゐたりける”。荒井献先生の言葉によると、神が相対化の視座にとどまるならば人間は底なしのニヒリズムに沈みこませるだろう。それは人間のすべてを相対化すると共に、苛酷な現実のただ中にある人間を根本的に支える”存在の根拠”なのだ…私は岡井の相対化された神の短歌を思い、イエスの神信仰を相対化の視座としてすえながら、彼をその生活の基盤において追体験していくことを確かめつつ…生ききっていく」(『神戸教会々報』1988年7月)

と。聖書を紐解くことに真摯だった山下は、神戸教会の歴代伝道師、神学生を慮り、常に信徒としての丁重さで接した。そのたたずまいに、教職たる者が求道の姿を教えられた。膳所での同信の友岡田寶は生涯を伝道者として献げたが、山下は信仰の理解は異なっても尊敬の念をもって岡田を遇した。求道者の心であろう。

信仰者

「私がクリスト者であることは、罪深い不条理を背負ったままで、生かされていること…である。いわば、私が持っている人間的恥部によって生かされているのは、人間の罪深い極限を、他者のために生きぬかれた復活のイエスとの決定的な出会いが起こったということ…もっていきどころのない慟哭にすくんでいる私に、復活のイエスは微笑みをもって話しかけてくださる」(『神戸教会々報』1955年)。

「私の復活信仰」という山下四十八歳の文章である。椎名麟三の表現が滲んでいる。死と生をその二重性において受けとめるところに、求道の緊張がユーモアに包まれる。信仰者は自由とユーモアに生きるものであるが、山下はその意味では求道者でありつつ信仰者であった。

”夕ぐるるエマオの途々弟子達の内に燃えけむゆゑしらなくに”

ルカ福音書の復活のイエスを詠んだ一首であるが、山下は、人生の最後の最後まで内に燃えるものに支えられていた。そしてイエスとの関わりを語ることをこよなき喜びとした。

”イエスとのかかわりを語る君なりきしみじみとして今朝一人思ふ”

この”君”は想像を許されれば、飯島宗享ではないかと思う。1986年9月飯島の招きで出かけた、島原、天草の旅の燃ゆる心は幾首にも詠まれている。のち筆者も山下にすすめられて天草を旅した時、冨岡港三文字屋に宿をとり、二人が盃を酌み交わした部屋で飯島をこよなく慕う女将から

”さよさよと風は吹き来るといふ言葉ここの宿りに初めてきけり”

などと詠んだ情景をつぶさに耳にした。

読書人
山下の没後、山下の蔵書の一部、文学関係を除き、神学・思想書が夫人わきゑにより神戸教会に寄贈された。晩年引越の際一度は整理したとのことであったが、それでも四百冊余りある。
 キリスト教関係の著作集には、浅野順一、赤岩栄、関根正雄、石島三郎、鈴木正久などが並び、聖書に関するものでは、黒崎幸吉、シュラッター、デイリー・スタディ・バイブルなどの註解、近年の佐竹明、荒井献、田川建三、大貫隆、勝村弘也など、神学書には、波多野精一、魚木忠一、有賀鉄太郎などをはじめ、バルト、ブルトマン、ボルンカムなどが続く。恐らく、牧師矢部喜好をはじめ山下が耳を傾けた教会の礼拝説教の背景になった書物であろう。教養というよりは、いかに生きるか、そして「神」と向き合うか、という読書の姿が見られる。しかし注目すべきは吉本隆明に関するものである。著作集など80余冊。時代への洞察と思索を怠らなかった精神が窺える。これらは詠まれた歌に深く、またほのかに表現されている。

祈り
1993年の手帳に山下は新聞か雑誌の短歌欄で見たと思われる岡井隆選の一首を書き写している。「やすらぎは祈りと思う定めたる神は持たねど神居給うも」。
その年の元旦、これが最後の年賀状となったが、筆者宛のものへの添書きに”ともに老いてともに旅ゆく幸ひに朝なあさなの食事の祈り”とあり「この貧しい祈りに牧者として…とりなしのおいのりを願います。」とあった。とりなしの祈りを続けていたのは実は山下なのである。教会の祈祷会を欠かしたことはなかった。いつであったか、ごく平凡な少数の祈祷会であったが、山下が祈ったあと筆者は無性に、とめどなく涙が出てとまらなかったことがある。山下は筆者が神戸教会に牧師として招聘されたときの招聘委員会の委員長であった。人事には一般に世俗の様々な思惑が働き勝ちである。山下はひたすら自らの雑念からの解放を願いつつ、また筆者の想念に心を寄せたことであろう。思案する筆者へのはがきに、「何の計らひもなく」と親鸞のことばがさりげなく記されていたのを鮮やかに覚えている。このおだやかな促しのために秘かな祈りが重ねられたに違いない。「この人なかりせば私は神戸に存在しない」そんなことを語ったことがある。山下は傍らで笑っていた。山下も

「おいどんは、死ぬまで神戸教会でごわす」

などと言っていた。

 山下は83歳の時、教会の現役役員たちに推されて会堂修復の募金委員長となった。固辞に固辞を重ねたが、遂に懇請を神の招きと受けとった。しかしそれは新たなる決意でもあった。そして

「募金の問題、金を集めるということは、私の生活の具体的なことに直接関わるから『業(わざ)』だけに終わりかねない。それを超えるのは祈りである。わざの中にはまり込む自分を見てぞっとする。祈りがなければそれは超えられない…祈祷会が盛んになって欲しい」

と語った。終わりの一句は遺言ともとれる。募金はやがて目標に達した。山下は改めて

「募金については恵みに溢れた感謝をもっている。見えない力が働いた。祈りというものがあった。私の委員長は飾りであった。みんなで感謝したい。教会という場を、私の言葉で一言(ひとこと)で言うと、山下は山下自身に出会う場所だということです。私は私に出会う。ほんとうに自分自身に出会う場です」

と語った。それは時間の壁を破って永遠を覗き込むような、そして人をなつかしむ輝いた眼差しであった。
 ユトリロの絵のように瀟洒な神戸教会の会堂は、1995年1月17日、マグニチュード 7.2、震度7の烈震に耐えた。特別募金の完遂により改修を終わっていたことが外壁の倒壊をまぬがれた大きな要因であった。山下は「山手六丁目にうつぶきてをり」とかつて教会への想いを詠んでいるが、今は会堂が山下の存在を伝えている。

あとがき

歌集出版のすすめを笠原芳光は生前のご本人に語ってきた。控え目なご本人にはその思いがなかったせいか、作品はかなり散逸してしまっていた。『アララギ』に載ったものを麻生万里子氏が探して下さり、長男一路氏をはじめ親族の方の努力により思っていたより多くのものを収録することができた。年代の想定、かなづかい、読み、誤記の訂正など、細かく手を入れ、労多き編集の作業を情熱をもって行われた笠原芳光氏には、ただ感謝の他はない。
 しかし、何よりもご夫人わきゑ氏の熱意と祈り、故人への深い思いによってこの歌集が形をみたことを心から喜びたい。
 阪神・淡路大地震で多大な痛手を受けられた中から、印刷・出版の計らいをして下さったシャローム工房の木原栄示氏に厚くお礼を申し上げる。

1997年 早春

岩井健作