1997.3.9、神戸教会
復活前第3主日・受難節第4主日 礼拝週報
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)
この日の説教:マタイによる福音書 17:1-8
「恐れることはない」岩井健作
今日の聖書日課テキスト・マタイによる福音書 17章1節〜8節には、「恐れる(フォベオマイ)」という言葉が出てきます。
辞書を引いてみると、語源的には「逃れる(フェボマイ)」と結びついていて、「驚愕、身震い、パニック」などの具体的反応を指しています。
ギリシアの哲学者たちは「恐れ」を理性に反する態度として退けました。
しかし、通俗の格言などでは「神々を恐れよ」など、圧倒的な力を前にして、人間の保護を求める態度として積極的に考えられています。
「恐れる」には昔から二通りの捉え方があります。
さて、新約聖書では「恐れる」は95回用いられています。
福音書で58回(マタイ18回、マルコ12回、ルカ23回、ヨハネ5回)、使徒言行録14回、パウロ7回、その他17回です。
いわゆる日常的な恐れとは別に、神あるいは神の代理人の力ある業を目の当たりにしての恐れや、信仰の根本契機としての神の前での恐れを表す語として、特別な意味を持っているのがこの言葉の特徴です。
新約聖書の用例中30回は、一般的・日常的な恐れを表すのに用いられています。
例えば、ヘロデ・アンティパスは厳しい批判者・洗礼者ヨハネを「恐れた」(マルコ 6:20)という場面です。
神やイエスの力を目の当たりにしての恐れの用法は、先に述べたように、新約聖書の特徴です。
恐れが、励ましの言葉や「恐れないように」との呼びかけを通して、信頼へと変えられる構造を持っています。
湖の上を歩行するイエスは、動転した弟子たちに対して「わたしだ。恐れることはない」(マルコ 6:50 および並行箇所)と語りかけます。
今日の箇所は「山上の変貌」後のイエスが、硬く強ばった弟子たちの方へ身体的に向かって行って(近づき、手を触れて)、彼らの恐れを解きます。
”ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。”(マタイによる福音書 17:5-8、新共同訳)
ルカ福音書のイエス誕生の物語には、恐れのモティーフが幾度も出てきます(ルカ 1:13、1:30、2:10等々)。
「恐れるな」という語りかけの背後には、旧約の伝統があります(出エジプト 20:20、士師記 6:23、イザヤ 41:10等)。
特に「恐れるな」は、イザヤ書40章9節の語りかけを思い起こさせます。
”高い山にのぼれ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。”
(イザヤ書 40:9、新共同訳)
ここでは良い知らせを伝えること、真実を語ることです。
神の真実と向き合うことから逃げないことが「恐れない」ことです。
イエスの変貌は、神の真実、栄光です。
十字架の道に向かう栄光です。
ここと向き合うことを「恐れないで生きよ」との招きを、このテキストに読みたいと存じます。
(1997年3月9日 神戸教会週報掲載
岩井健作)



