「信徒の友」4月号から(1997 週報・小林平和牧師)

1997.3.16、神戸教会
復活前第2主日・受難節第5主日 礼拝週報

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

この日の説教:ヨハネ 12:20-26
「一粒の麦」岩井健作


 地震の年(1995年)の5月、

「岩井さんの応援が出来なくて済まない」

 との言葉を残して、友人の牧師・小林平和さんは肝臓癌で逝去された。

 その年の御影の家庭集会で、彼の最後の説教テープ(「永遠の命」 1995年4月16日)を聴き、皆さんにも記念していただいた。

 在宅ホスピスケアで彼の地上の終わりを看取られたのは、医師・川越厚さん(小金井緑町教会員、東京都小金井市)だと聞いていた。

 どんな方なのだろうか?

 とかねがね心に掛かっていたら、1997年4月号の「信徒の友」に、この医師と編集長との対談の掲載があり、

 やはり

 という思いを与えられた。


 略歴には次のようにある。

 川越厚(かわごえこう)1947年、山口市に生まれ、広島に移る。1973年、東京大学医学部卒業。茨城県立中央病院産婦人科部長を経て、東京大学講師になるが、病気を機に、白十字診療所在宅ホスピス部に移る。現在、賛育会病院院長を勤めながら、在宅ホスピスケアに取り組む。


 この「病気を機に」とあるところをご本人はこう語る。

”38歳の時に東大の講師として戻るように言われ……戻るからにはベストを尽くそうとそれなりの決心を……ようやく軌道に乗っていけるなと自信がついた時、大腸ガンになりました。39歳の時です。ショックでした。なんで自分だけが、という感じ。”

”その時に、佐藤智(あきら)先生(在宅ケアを推進する「ライフケアシステム」の代表者)に出会いました。…結局、大学病院の競争社会からドロップアウトして、何をしたら良いかと探していた時に、一つの道を与えられたという感じがいたします。”


 ところが、川越さんはその方向転換の中で、自分は癌の専門医だから、この分野で働こうと思った思いが

”見事に覆され……今まで自分が正しいと思ってきた医療とは、何だったのか、と逆に問われてしまった。”

 と述べ、さらに続けて

”それ(今までの医療の考え)を全部捨てて、ゼロに立った時に、初めて在宅の患者さん、家族の方と同じ立場で、本当に必要な医療を医者の立場からできることがわかりました。”

 と語っている。

 そして、小林平和さんは良い医師とめぐり逢えたな、と一種の羨望を覚えた。

 川越さんは、かつて『やすらかな死 ー 癌との闘い・在宅の記録』(川越厚編 日本基督教団出版局 1994)を出版された。

 その序文で、柳田邦夫氏は、主人公が日常性を失わずに生きようとし、家族・医師・牧師がそれを一体となって支えたこと、ケアに携わった人がそれぞれ独善的にならず、共同の検証をしたことの素晴らしさを評価している。

 死を忘れない日常、日常を忘れない死への深い示唆を与えられた。

(1997年3月16日 神戸教会週報掲載 
岩井健作)


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