2019年9月14日、未発表原稿
(安中教会に転会して3年、健作さん86歳)
「教会の風景」本文を神戸の菅根牧師に渡したら「幼稚園、幼児教育、絵本、頌栄」関連の著作、エッセイ、説教、講演等があれば、膨らみが増すのではないか、との意見があったので、振り返りつつ加筆を試みたものが本稿である。
教会の中心的働きは牧会及び伝道であるが、教会にはその周辺で様々な働きがある。
まず、多くの教会が教会の付属施設として幼児教育を担ってきた。私が赴任した教会はほとんどに幼児施設があった。今は国の方針が、幼児教育は社会福祉法人の保育園及び、学校法人の幼稚園で運営するように指導が行き届いていて、その他の幼児施設は「無認可園」などと言われている。
私が神学校を出て、初めて赴任した教会は、広島流川教会であった。そこには流川幼稚園があったが、伝道師であった故もあり、直接には関係はなかった。
しかし園長の山崎久史さんが同志社の出身であったので、いろいろお世話になった。教会の収入が少なかったので、教会が経営する「英語学校」の教務主任などをやらせてもらった。すでに学生時代から婚約していた小林溢子とは結婚の時期が遅れて思案していたが、英語学校の講師が9月に二人辞めたので、そこを溢子に受け持ってもらうことにして、その年の8月1日(私の誕生日)に京都教会(神学生時代に籍があった)で結婚式を挙げた(司式:大山寛牧師、仲人:山崎亨・夏子 同志社神学部長夫妻)。
住居がなかったので、山崎久史さんが幼稚園舎の物置の中二階に住むように手配してくれた。立つと天井までが10センチくらいの高さであった。
呉山手教会に移って、初めて幼稚園長に就いたが、経験がないので、とにかく二つのことを心がけた。
一つは、子供と遊ぶこと。もう一つは、教師の言うことによく耳を傾けることであった。これはその後もずっと守ってきた。「園長風」は吹かせないように心がけた。このことで「現場」を身近に感じることができた。
ある日、園庭で遊んでいると、ブランコにぶつかりそうになった子がいたので「あぶないよ」と僕が言ったら、その子は僕の言っている真似をして「あぶないよ」と言った。
子供は言葉を聞くよりも大人の見真似をすることを知らされた。
教会の訪問などに「機動力」が必要と考えて内田康一さんが薦める125ccの中古バイクを買った。もちろん「原付」の免許を取った。溢子を後ろに乗せてかなり広範囲に行動した。
岩国教会に移った事情などは、本編で書いたが、記さなかった幼稚園での思い出を記したい。
なんと言っても、やすあき君のことは忘れ難い。
3歳児に入園してきたが、いわゆる「情緒障害」があって、とても皆と一緒に生活できなかった。お母さんは割と勝ち気な人で、幼稚園が能力不足であるように感じて、幼稚園を辞めさせてしまった。色々な所を連れ回ったそうだ。最後に大妻女子大の平井信義教授に、自閉症児は健常児と共に育てるのが一番良いとのアドバイスで、結局幼稚園に入れてくれるようにと舞い戻ってきた。ある時、幼稚園の門がギーッと開いて牧師館の玄関ベルが鳴って出てみたら「なんだ、やすあき君じゃあないの」という訳で、とにかく来てもらうことにした。
その頃、現場には「統合保育」という言葉はなかった。
午後、教師たちに相談すると「私たちそんな難しい保育はできません。園長先生がお引き受けになったのだから、園長先生がやってください」との応答。
翌日からやすあき君を抱え込んでの奮闘が始まった。ちょっと目を離すと屋根に登る、トイレではペーパーを引っ張り出して紙の山。下駄箱はひっくり返る、他の子供に水をぶっかける。困り果てているとベテラン教師の鯉淵さんが「お困りになっているようだからお手伝いします」と言ってくれた。
「今日から新しいお友達が二人来ました。やすあき君と健作ちゃんです」
「なんや、園長先生やんか」
「いいえ、健作ちゃんです」
ということで、僕は保育時間はクラスに入った。
なんとか統合保育なるものが進んだ。
卒園式の日、「やすあきくん」と呼ばれると「ハイっ!」と前に出てきて、父母たちをどよめかせた。
岩国では初めは50ccバイクに乗っていたが、岩国自動車学校で普通車免許を取り、マツダの360ccクーペの中古車に乗った。東京の兄の岩井要が事務所のカローラを使わないので、必要だったら取りにおいでのことで、東京から岩国まで遠距離運転して帰ったことなど懐かしい。若いので元気だった。
そのうちに幼稚園が園児減少で、どこの園も園バスの導入に踏み切っていた。
岩国幼稚園でもバス導入をすることになり、初めはマツダのクラフト、続いてトヨタのトヨエースのマイクロバスになった。運転手にはトラックの運転をしていた知人が朝の時間に奉仕的に運転してくれたが、休んだ時のことを考え、僕も大型免許を取得した。
たまに運転手の都合がつかない時、僕が運転すると「今日は園長や」と子供が喜んだ。
神戸以来もう大型には用はないが、僕の大型免許は岩国教会幼稚園の園バスが由来である。
神戸教会には二つの付属幼稚園があった。
教会に隣接する「神戸教会いずみ幼稚園」と少し離れた兵庫県石井町の「石井幼稚園」である。
「いずみ幼稚園」は牧師が園長を兼務していた。
「石井幼稚園」は飛田溢子さんが園長だった。飛田さんは前々牧師の鈴木浩二先生の娘さんだった。飛田さんが退職してしばらく、僕が兼務した。その時は忙しかった。朝、いずみ幼稚園で園児の出迎えと教師会を済ませ、バイクで石井幼稚園に出かけて教師会をした。祈りと打ち合わせなのでほんの短時間ではあった。
神戸では私立幼稚園連盟の理事を務めた。102条園部会をまとめ県の助成金を引き出すのが役目だった。
教会と幼稚園とで多忙であったが、できる限り園児とは遊ぶように心がけた。こちらはそのつもりでいるのだが、子供から見ると逆であった。「園長先生、遊んであげる」という言葉が忘れられない。
24年間、実にたくさんの幼稚園の教師と共に働いた。忘れ難い教師が何人もいる。
沖口菊子さん。大阪の近くの園田からの通勤だった。お連れ合いを早くに亡くし、一人息子の道夫君がもう成人していた。朝、出勤すると必ず牧師館の扉をコツコツと叩いてのご挨拶があった
安雲みちよさんは際立って印象に残っている教師だ。子供の心をよく掴んでいった。3代目のクリスチャンで、祖父の安雲宗一さんは教会事務員として長らく奉仕をされていた。幼児教育は素人であったので、西宮公同幼稚園の菅澤邦明牧師・園長、お連れ合いの主任 順子さんから多くのことを学んでいた。夫妻も僕たち夫婦のことを信頼してくれた。一つには、田川建三や桑原重夫などの「宗教批判・キリスト教批判」の視点に思想的に共鳴していたことがあったと思う。(神戸教会では聖書の読み方として講壇にも反映させていたが、100年以上の伝統があり、多様な人たちのいる教会では難しいことでもあり、押し付けにならぬよう配慮した)もう一つは幼児教育を幅広く考える人たちと共通な視点を学んでいたからであった。寺内定夫など「木のおもちゃ」作家のことなど、菅澤さんから紹介されたことなど、思い出に残ることであった。小黒三郎の組み木の本など、今でも三冊が書棚に並んでいる。『動物組み木をつくる』など、署名入りの本である。また菅澤さん手作りの「三角パズル・ヘキシアモンド」なども、こんな田舎の老人ホームまで持ってきた。
群馬に来て安中教会に移ってから頼まれた講演が二つある。
一つは2017年9月3日の「非戦の願いをつなぐ安中松井田の会」による学習会である。「米軍基地のある国はほんとうに独立国か – 岩国そして沖縄の現実」という題で、安中公民館で話をした。よく人が集まっていた。70〜80人はいたのではないか。質問もよく出た。世話人の谷中幸雄さん、淡路明子さんがよく行き届いた世話をされた。
もう一つは、2018年5月15日、日本キリスト教婦人矯風会安中支部からの依頼で「柏木義園を辺野古から読む」という題で、安中教会を会場に開催された講演会である。前田信子さんのお世話だった。どこから聞きつけたか、遠くは東京から坂さん(美竹)、岡安さん(山梨)、本間さん(川口)などが来られた。
その他『聖書の風景』を出版してから出版記念会が神戸教会の菅根牧師の好意で行われたことなどは既に記した。
大学への関わりを少し記しておくと、各地で地元の牧師が皆経験しているように、チャペルアワーに招かれることは、広島流川教会以来続いていた。
広島女学院大学、ここは高校にもよく呼ばれた。広島女学院大学では一年次の「キリスト教概論」の授業を小黒薫教授に任され、何年か続けた。藤本順子さんなどが学生であった。後の寺島昭二牧師夫人になった方である。野方町教会が最後だったと思うが、現在は隠退教師になっておられる。呉山手に移ってからも広島女学院にはバイクで通った。
聖和大学へは「キリスト教概説」の授業にしばらく呼ばれた。
神戸では頌栄保育学院の理事を長年務めた。今井鎮雄理事長の勧めだった。今井さんの時に副理事長だったので今井さんの後何年かは理事長を務めた。後半は、鎌倉から通った。
明治学院教会は大学の休日の日曜日に大学のチャペルで礼拝をしていた。大学の理事会が官庁の指導で教授のクリスチャン条項(大学の教員はクリスチャンであること)を外した時にその代わりに大学内で「教会」を設置するということで出来た教会であった。同志社の友人でもあった上林順一郎牧師に頼まれて、結局10年間ここの牧師を務めた。大学関係者はほんの20人くらいの礼拝を、何百人も入る学院チャペルで行っていたが、続けているうちに忘れ難い信仰の友を与えられた。K.Tさん、学院では副学長を務めているS.H・H.H夫妻、教授だったT.K・M .K夫妻などである。
今は静かに老人ホームの生活を続けていることは本編に書いた通りである。本編と重なったところも多々あるがお許しを願いたい。