(サイト記)桝本うめ子の生涯 − 桝本華子、武義和【加筆】内村鑑三と新島襄の出会い(2019 出会い)

歌声と共に・桝本うめ子の生涯 − 桝本華子、武義和

(サイト記)このページは健作さんによるものではありません。サイト追記です。健作さんによる本文「桝本うめ子の生涯 − その周りの人々」中に何度か登場する次女・華子先生と独立学園の創作曲について補足したいと思いました。桝本うめ子先生の教師生活(書道100歳まで)は、次女華子先生(音楽88歳まで)が指導する学生の熱い歌声に(雪に閉ざされる冬も)包まれた生涯であったと思います。後半、本文の舞台となる基督教独立学園の創立を祈った内村鑑三と新島襄の接点について触れています。健作さんのテキストではありませんが、補足として、よろしければ。


本文「桝本うめ子の生涯 − その周りの人々」を読む


うめ子次女・華子、1950年、「基督教独立学園」音楽教諭に着任。28歳。(うめ子59歳)

1992年、母うめ子、書の教師として100歳にて死去。

2010年、華子、88歳まで60年間を音楽の教師として生徒指導。

2012年2月17日、華子、90歳にて死去。


「光の中に」 桝本華子

雨がやんで 
空に七色虹が出た
みんなみんな出ておいで
大きな虹だ きれいだな きれいだな

虹のむこうになにがある
虹のむこうに夢がある
わたってゆこうか 夢追いかけて
渡ってゆこうよ 手をとりあって

夢をおって
夢のむこうに愛がある
まことの愛をおいかける
(まことの愛を)祈りつつ

愛のむこうは雲の峰
雲のむこうに歌がある
飛んでゆきたい 光の中へ
飛んでゆこうよ 光の中へ

天使の歌が高く 天使の歌が低く
また高く また低く また高く

挿入 (賛美歌530・3番)
 み空をあおげば うき世の雲は
 日に日に消えゆき 霧はた晴れる。
 行く手にかがやく とこ世のひかり
 みとめし我らは いざほめ歌わん。

飛んで行きたい 光の中へ
飛んで行こうよ 光の中へ 
光の中へ


 この詩は、2012年2月17日に90歳でなくなられた桝本華子先生(2010年まで60年間、独立学園高等学校で音楽教師)が、人生の最後に書かれた詩です。
 この詩にかける思いは深く強く、今月初旬には、毎晩のように私(作曲者:武義和)の所に電話があり、細かい修正や、歌にする場合の打ち合わせをくり返していました。
 途中に、愛する賛美歌530番(特にその3番)が挿入され、そこにも華子先生の祈りと願いが込められている気がします。
 私の作曲完成が亡くなる2日前の夜で、この歌をお聴かせすることができなかったことは悔やまれます。
作曲者:武義和 2012.2 (基督教独立学園教諭)


「光の中に」 基督教独立学園

詞:桝本華子
曲:武義和
合唱:基督教独立学園高等学校




 筆者は、1983年(36年前)、大学1年のとき、独立学園に行きました。卒業生から学園生徒の合唱の録音テープをお借りし、震えるほどの感銘を受けて、どこからあの曲の数々が生まれたのか、どうしても知りたかったのです。八木重吉や水野源三、キリスト者詩人の詩に学生だった武義和さんが作曲し、また音楽の教師となって、歴代の在校生で作品を完成させる営み、私が聴いた時の作品は、全てが凄まじい力を放って、当時の私の心に突き刺さり、何度も聴きました。
 武義和さんは1985年設立の埼玉「自由の森学園」創設に携わり、音楽指導をされます。「自由の森学園有志」によるあの国会前の「ケサラ」も武さんの編曲によるものです。

 鈴木弼美校長(当時83歳)、桝本うめ子先生(91歳)にもお会いました。大学1年の若造が突然訪問したのにも関わらず、鈴木弼美校長がお話の相手をしてくださいました。


 内村との出会いや言葉に感化された信仰に連なる人々に触れる度「内村とは何か」という大きな問いの前に立たされます。
 健作さんは高崎に移られるまで『内村鑑三全集』(岩波)を所蔵しておられました。内村と新島を比較されたこともおありかと想像します。

 内村と新島には直接の接点があります。
 内村は幼き日を高崎藩で過ごし、新島は安中藩、共に自力で単身アメリカに渡り、留学先は共に「アマースト大学」「シーリー教授・校長」(新島はアンドーバーニュートン神学校からアマースト大学に進学していました)。
 アマーストでの内村と新島の上州人の絆がいかなるものであったことでしょうか。
 やがて新島は「同志社」を創り、内村の祈りは「基督教独立学園」を創りました。学校の規模の大小を比較すれば軍配は明らかです。しかし、内村の言葉が今も生きて私たちの心を慰める力を放っているのは、興味深いことです。

 現在、新島から内村への手紙を岩波文庫で読むことができる。当時ペンシルベニアの病院で働いていた内村は、この時、ペンシルベニア大学(あるいはハーバード)の医学部とアマースト大学リベラルアーツとで進学先を迷っていたようです。

 なお、興味深いことにこの手紙は1954年の『新島襄書簡集』(岩波文庫)には収録されておらず、2005年発行の『新島襄の手紙』(岩波文庫)にのみ収録されています。


 以下、新島から内村宛の手紙の箇所を『新島襄の手紙』(同志社編、岩波文庫 2005、p199-201)から、短いので全文引用します。アマースト大学をアーモスト大学に、ペンシルベニアをペンシルヴァニアに、というように表記が異なるのは引用元の岩波文庫の表記をそのまま引用したことによります。また筆者の手元にあるのは初版第1刷だけです。原文が英語なので、版が変われば併せて訳も変わっているかもしれません。それでもこの手紙が2005年の『新島襄の手紙』に収録されたことの価値に較べれば、訳語の違いなどはとるに足りない小さな問題です。そもそも入手可能でリーダブルな新島のテキストはこの『新島襄の手紙』(岩波文庫 2005)以外にない現状で、むしろ内村宛の手紙が遺っていることが驚きであり、2005年になって同志社編として読めるようになったことに敬意を表したい。

 とりあえず、『新島襄の手紙』(同志社編、岩波文庫 2005年)初版第1刷は次の通り。

内村鑑三宛 1885(明治18)年8月7日

 原英文。1885年5月6・7日、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学を訪問した新島は、同大学に留学中の新渡戸稲造(1862-1933)から、ペンシルヴァニア州の福祉施設で働いている内村鑑三(1861-1930)が精神的に参っているので激励してやってほしいと頼まれた。新島はボストンへ帰る途中フィラデルフィアで内村に会い、彼の悩みを親身になって聞き、共に聖書を読み、共に祈った。この時から両者の間に英語による文通が始まり、内村は新島を精神的な助言者として深く信頼した。新島は内村を救うにはアーモスト大学に送ることが最善だと確信し、恩師であるシーリー学長(Julius H. Seelye, 1824-95)に推薦状を書き、内村の入学許可を取りつけた。内村はハーヴァード大学やペンシルヴァニア大学に行く可能性を捨ててアーモスト大学を選び、2年間の在学中にシーリー学長の下で回心を体験したことは、彼の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(第8章)が雄弁に証しする。

 前略

 昨日、貴兄から2通のお手紙を受け取りました。わが内村愛兄が福音宣教のために燦然と、しかも大胆に全身を捧げる決意をなさったことについて、神に感謝致します。

 私は貴兄の新しい献身に心から賛同する者であり、大声で「アーメン」を唱えます。

 貴兄の将来については異常なほど不安を感じていました。貴兄宛に先便を書いていた時でさえ、貴兄からの答えは私の期待を大きく外れたものになるのではないかという危惧の念を抱いていたのです。

 このようなご返事を頂き、大変喜んでいます。これが貴兄の最終決断であると信じます。二度と変更はなりません。アーモストに入れば新しい道が貴兄に開けることを確信しています。金銭問題を気にする必要はありません。男らしさと献身が本物であれば、金は付いてきます。マナ(天の糧)は何とか与えられます。

 確言しておきますが、今日この広い世界の中で、三位一体の神以外に、私ほど貴兄の新しいご決意を喜んでいる者はありません。こうして貴兄と共に喜ぶ機会をもたらして下さった神に、心の底から感謝します。シーリー学長宛、すぐにも手紙を書きます。アーモストから返事がくるまで、ペンシルヴァニアに帰ろうとしてはいけません。できるだけ長く北部(マサチューセッツ州グロスター)に留まるようにしなさい。ペンシルヴァニアよりもずっと高緯度の地に居られる方が、貴兄のためには良いからです。

 最後に言います。愛兄よ、確信を持って主を待ち望みなさい。主は貴兄の道を歩きやすく、しかも祝福に満ちたものとしてくださるでしょう。

 主にあって、ジョセフ・H・ニイシマ

 主が貴兄をこの最終決断へ向けて一歩一歩導き給うたことに対し、感謝をこめてこの手紙に封をします。


 内村宛の書簡が収められているのは上掲『新島襄の手紙』2005年発行の岩波文庫。

 1954年発行の『新島襄書簡集』第17刷(岩波文庫、写真も似たようなもので紛らわしい)。多くの方に読まれてきたのはこちらの方で、内村宛の手紙は収録されていません。

 現在、手紙以外の新島襄のテキストが読めない(研究者は別)という事実をどう考えれば良いのだろうか。新島が書いた英文が読めないという語学力の問題、文語調の文体の分かりづらさ、それは確かにあるだろうけれども十分な説明とは思えない。内村も同じ条件である。新島が早逝した、代表的著作がなかった、そういった理由づけもできるだろう。同志社で十分、テキストなど不要という割り切り方もあるだろう。

 しかし、この一通の手紙だって立派なテキストであり、歴史資料である。これが岩波文庫で手軽に「読める」わけだから、新島のテキストは十分私たちに開かれていると解釈することもできるだろう。

 結果的に何が遺るにせよ、後世に委ねるだけであって、本サイトではアーカイブを進めよう。公文書が改竄され捨てられ、記録も残されなくなり、あったことがなかったことにされ、開示される資料は黒塗りという時代であればこそ、なおさら。

 岩井健作ドットコムは、何度も内村と新島を振り返って(このページに戻って)「テキストのアーカイブとは」の問いに向き合うはずです。

(このページはサイト記です。健作さん本人のテキストではありません)