「全教幼会報 第74号」所収(1994年9月25日 日本基督教団発行、全国教会幼稚園連絡会)
第22回 園長会報告「今日の幼稚園の課題」
1994年5月30日-6月1日 於高山グリーンホテル
(神戸教会牧師、神戸教会いずみ幼稚園園長、健作さん60歳)
BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)
私に託されているのは、幼稚園の宣教論です。結論から申しますと、こどもは宣教の対象ではなく、こどもであるゆえに宣教の主体だ、ということです。教会が幼稚園を営む意味をそこに見出していることを、私なりに述べさせていただきます。その前に、今どのような状況の中でそのように申すのか、私の持ち場についてふれさせていただきます。
教会幼稚園々長生活は、「宗法」園を三つ経験、34年目です。今の「神戸教会いずみ幼稚園」(宗法)での17年目です。「いずみ」は神戸市の中心、幼児過疎地、中央区にあります。1993年度の中央区は、3才〜5才の幼児人口は2738人、そのうち市立幼稚園(4・5歳児のみ、4園)316人、私立幼稚園(3〜5歳、13園《うち学法園6、102条園7》)1315。残りの幼児のうち、約8割は保育園という分布です。
私立園は、ここ10年の間に4園が廃園となり、今年は11園、うち5園がキリスト教系です。私たちの園への教材料費等の助成は、昨年度県91万、市64万、41名で割ると園児一名につき約3万8千円弱です。学法幼が幼児一人当たり約18万、また東京都は宗法でもそれに匹敵する額の助成があると聞きますが、それから見ると桁違いの額です。神戸市中央区の私立幼稚園児数は、昨年から今年にかけて1010人から883人と127名減です。一園平均11名減です。そんな中で「いずみ」は10名増でした。理由は色々ありますが、園舎の新築と、保育内容への信頼が重なったと考えられます。
神戸教会は60年前建築の現会堂の機能を補うため、障害者用を含めたトイレとエレベーターの設置、それを含めて幼稚園々舎の新築のため募金(1億5千万円)を行いました。これは幼児教育を、教会の宣教的使命としてゆこうとの教会全体の理解の現れだと思います。そこには100年前、アメリカよりA・L・ハウ宣教師を招き、頌栄幼稚園、頌栄保母伝習所(現在、頌栄保育学院)の創設にあたった初期神戸教会の志を受け継ぐものが活きています。
現在も「石井」「いずみ」の二つの宗法園を運営し、両者ともピーク時は定員80名を上回る運営でしたが、現在は25から40名を前後しています。しかし何とか持続しているところは、基本的にこれを宣教と考えているからです。
何故、幼稚園が宣教なのでしょうか。もし、幼稚園を教会の伝道手段の一つと考えているならば、経済的にプラスとならなかったり、教会のエネルギーがそこにあまり取られたりすれば、この領域から撤退するのが当を得ていると考えるのが普通です。私は幼稚園は伝道の手段だとは考えません。「伝道」を「福音」の共なる受容の確認と考えるならば、幼稚園はそれよりももう少し広義の概念の「宣教」に属する営みだと思います。宣教は「福音」によって共に生きることと考えれば、それは、社会・教育・医療・芸術など文化領域の営みを包み込んでこそ成り立ちます。異教社会にあっては、伝道が重視されねばならないのは当然です。だからといって伝道が第一義、宣教が第二義とはなりません。何故なら、文化領域で実質的に活きて働く「福音」なくして、その自覚的受容もあり得ないからです。ここのところは、神学的テーマとしても微妙なところで、「福音」の真理契機と体得契機の相互関係でもあります。「福音」の真理契機としては、「神が人と成り給うた」と告白される出来事があり、「イエスの十字架の死の極み」において、それは真実であったこと、それは逆説的に「復活」信仰として告白されていることなどが根源とされます。幼児教育を「福音」における出来事の伝達と考えるなら、真理契機として告白された事柄(愛、信頼という言葉に置きかえてもよい)の実践となるでありましょう。幼児教育には、そのような面もあります。しかし、私が宣教的使命と考えることはその面ではなく、文化領域そのものである幼児教育の内実は、「福音」の体得契機として、欠かすことの出来ない大切な事柄を固有に担っている、ということなのです。
イエスは、こどもについて「神の国はこのような者の国である」(マルコ 10:14)と申されました。これは、こどもの存在が固有に担い続けている特別な「福音」の体得契機を示唆しています。例えば、「神が人と成る」という「福音」の内実である、人格と人格との関係性というもの、言いかえれば「愛=関係性を明確にするなら、死を媒介としたあがないの愛」というものを、子どもの存在は、あらわに示唆しています。胎児・新生児に象徴されるような母子関係における子の存在は、人格的関係性のしるしそのものです。私の体験ですが、娘が妊娠後期、早産に近い状況で突然低体重児を出産した時のことです。小児科医・三宅廉先生はそこに立ち会いつつ、「子どもはこうやって”親”をハラハラさせながら、親の愛を引き出して生まれてくるものなのですよ」と言われました。子どもの存在が関係性そのものなのだということをしみじみ知らされました。その関係性はまた宗教性に通じ、「神」の領域のことを示唆しているものだ、との思いを抱きました。こどもは、言葉の自覚において「福音」を共有すべき存在なのではなくて(伝道の対象ではなく)、それよりはるか根源的意味で、「福音」の体現者として、宗教の主体として存在しているのではないでしょうか。
最近レギーネ・シントラー『希望への教育 – こどもとキリスト教』(教団出版局 1992)を読みました。この中で、著者はこどもたちがファンタジー(創造的想像力)を大人よりもはるかにすぐれてもっていることに注意をむけます。そして「ファンタジー」は、分析したり解釈したりするよりも、物事を全体的にとらえ、その背後にある意味をつかみとる能力(p.211)とし「イエスこそ戒めを満たすことでなくファンタジーをもって、人間の仲間の中に入っていくことが人生の意味である、という生き方をされた方」(p.212、共に訳者解説)と語っています。ファンタジーの豊かさゆえにこどもは「神の国」の体現者であります。
同じような事は、自然に対する感性についても言えます。レイチェル・カーソン(海洋生物学者・作家 1907-1964)は、その著『センス・オブ・ワンダー』の中で、「子どもといっしょに自然を探検するという事は、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性にみがきをかけるということです」(p.27)といって、こどもの感性を回路としての創造の神秘、人間を越えた存在への認識、おそれ、驚嘆に導かれることを語ります。その他、こどもの遊びは、世界の相対化のサインとなっていますし、乳児の母親からの自立は「愛にある放棄と断念の体験」(シントラー p.107)でもあります。
教会はこのようなこどもの世界に多面に関わっていますが、教会が幼児教育の主体となること(宗法が最も直接的、学法は形態としては間接的)は、ぬきさしならない問題(例えば、子供の諸権利、保育者の生活の権利権からの問い)を引き受けつつ、子どもが宣教の主体であることのもたらす恵みに与ることでありましょう。もう一度繰り返すなら、子どもに「伝道」するため、それを手がかりとして親に「伝道」するため、幼稚園を運営するのではありません。教会は「神、人と成り給う」という「福音」の出来事に参与し、その恵みにあずかるゆえに、こどもに関わり、こどもと共に、こどもを含めて、教会たり得るのではないでしょうか。教会がこどもと共にあるという一つのアナロジー(類推)として、教会幼稚園を存在させ続けよう、というのが私の「宣教としての教会幼稚園」です。国家目標や親の利益目標にこどもを秩序づけるような底流に敏感に抗しつつ、「教会」幼稚園を守ろうではありませんか。
(神戸教会牧師、神戸教会いずみ幼稚園園長 岩井健作)



