この人の思い出(2009 礼拝説教・ナルドの香油@ベタニア)

2009.3.1、明治学院教会(146)受難節 ①

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

マルコ 14:1-9

1.「ベタニアで香油を注がれる」話は昔から受難節に学ばれてきた。

 2年前の受難節にもここを学んだ。少しおさらいをしておきたい。

 三つの点に注目したい。

(1)第一に「物語」。

 聖書の福音の伝達には二通りある。

 ①「信仰箇条」(信仰理論)として伝える。理性に訴える。パウロはその方法を主に用いる(ロマ書 1:2以下)。

 ②「物語」(文学)として語る。福音書の方法。聞く者の想像力に訴える。

(2)第二に「この物語」は行為に象徴されるイエスへの「信仰告白」だということ。

 それはペトロの言葉の告白(マルコ 8:27以下)への対抗である。

「イエスの体への塗油」に象徴されるイエスの受難への関わりを意味する(マルコ14:3節の「頭」が、8節では「体」)。

 パウロが「キリストのために苦しむことも恵みとして」(フィリピ 1:29)と論理でいうことを、マルコの今日の箇所では物語全体が秘めている。

「ナルドの香油」とは、インド産のナルドという植物から抽出される高価な香油。”葬り”に用いられる。300デナリオン(マルコ 14:3)とは、約1年分のぶどう園の労働者の賃金に当たる。

「言葉の告白」を「実体のある告白」へと示唆される。

(3)第三に「無名の女」ということ(ルカ・ヨハネは特定している)。

 らい病(新共同訳では”重い皮膚病”)人シモンは男性。それと比較すると、この女の無名性は意味深長だ。苦難の広範性、深層性を暗示してはいないか。

 人には言えない苦しみは、イエスの受難に繋がることで逆説的意味を宿す、というメッセージを聞く。

”…この人がわたしにしてくれたこともまた、この人の思い出として語られることであろう」。”(マルコ 14:9、田川建三訳)

 ここは、イエスの出来事の記念(思い出)という意味に理解されやすいが、そうではなく、イエスにつながる「この人の思い出」という意味。

 人生は、人には言えない苦労をいっぱい背負い込んで成り立つ。

 イエスにつながるとき、苦難は苦難のままで、重いままで受容される。「この人の思い出」はそのように語られる。

2.「受難」には二つの面がある。

(1)ギリシア語の”パテイン”(受ける)が語源。「受け身、苦難は受け止めるもの」という面。生きるということは、多かれ少なかれ受け身だ。

 私たちは「生まれてきた」と自分の人生を表現する。主体的にとか、切り開くとか、積極的にとか、一方ではいうが、しかし、受け身で受けて立つ意外にない「所与」が人生であり、歴史である。

 なぜ貧しいのだ。なぜ不自由なのだ。答えがない。

 不条理はそもそもが受苦的である。

(2)もう一つは”情熱。

 ”パッション”は「受難」と「情熱」の両面を意味する。情熱的であることが「受難」の一面である。福音書の受難物語はとても情熱的である。

 ジョルジュ・ルオーの『受難』という画集がある。「受難」というテーマの54枚の連作である。詩人・アンドレ・シュレアスの『受難』という詩を飾るために描かれたものだが、イエスの受難の場面が情熱的に描かれている。

 イエスの顔は、目を大きく開き、絵と向き合う者の心を覗き込んでいるようである。

「あなたも苦しみを負っているのだね」と声が聞こえてくる。

 この絵のイエスのように、目を見開いて生きてゆきたい。

 

146_20090301

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