博士たち、イエスを拝む(2009 小磯良平 ⑯)

2009.2.25(水)12:20-13:00、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」⑯

画像は小磯良平画伯「占星術の学者たち、イエスを拝む」

(サイト記)配布資料と集会後の”まとめ”バージョンを収録

マタイ 2:1-12

1.新約聖書と福音書

 27巻の新約文書のうち、最初の4つが「福音書」。イエスの生涯と振る舞いと言葉を中心にして、その出来事を「福音(よき訪れ)」として纏めた文学。マタイ、ルカは「マルコ」と「イエス語録(Q)」を資料として(「二資料説」という)1世紀末に書かれた。共通の要素が多いのでこの3つを「共観福音書」と言う。ヨハネは90年ごろ、独自の「キリストとは誰か」を記した神学的文書。いずれも史実そのもの伝記ではない。

2.解題

 マタイ福音書:成立1世紀末に近い80年代後半。ユダヤ教と異邦人世界の接点の地域、シリヤ(ユダヤ教を激しく非難し、同時に旧約をイエスの言行の論拠に使う、異邦人の存在が強調されている。「東の方から」2:1)。

 著者:イエスの直弟子ではない。通称「マタイの教会」の指導者。

 叙述の基本はマルコを基本資料として、他にイエスに関する「言葉資料(Q)」と「独自資料(M)」を用いている。「博士の物語」はM。

3.今までの学び方

 今までの学びは、旧約聖書の小磯さんの挿絵を
① 講師が挿絵の背景になっている聖書箇所の旧約聖書での文脈を解説
② 挿絵とテキストが如何に係わっているかを解説
③ その挿絵から、テキストの持っている現代へのメッセージを汲み取る
という方法で、レジュメを作って学んできました。

4.今回からの学び方

今回からその学び方を変えてみます。今までの学び方を「講義型」とすれば、今回からは「みんなの参加型」という学び方を試みます。

 今回からその学び方を変えてみます。今までの学び方を「講義型」とすれば、今回からは「みんなの参加型」という学び方を試みます。

 その理由。挿絵は誰にでも開かれている。有りのままの感想、疑問などはだれにでもある。案外、先入観を持たない直感が、既成観念を破って、生活感覚から、聖書のテキストに迫るものを暗示することがある。それを大切にしたい。

 専門知識を必要とするところは、講師が当たる。

5.今日のテキスト

 特に今日のテキストは、イエスが誕生した時、大きな星が現れて、東の国の「占星術の学者(博士)たち」が、「ユダヤにあたらしい王(マタイでは王はメシヤ[救い主]と同等視されている)はどこに生まれたか」とユダヤのへロデ王を訪ね、へロデは不安を抱くが、律法学者らに「ユダヤのベツレへム」だと調べさせ、帰りには寄るようにと言った。王の言葉で出かけると、星が先立って進み、学者たちは母マリヤと共にいる幼な子を拝み、宝物を送り、夢のお告げで「 別な道」 から帰ってしまった、というお話。

6.まとめ

 みんなの話し、を纏めたものは、次回までに作る。

 実質30分間なので、その点は心得てゆきたい。

 さて、どうなりますか。

(サイト記)この日のプリント原稿は2種類あり、以下はその日に帰ってから健作さんが整理した「まとめ」を反映したもの。新しい試み「みんなの参加型」形式は試行(工夫)が続いたようで、配布前の編集段階バージョンが数種類あり、集会の”声”を反映したバージョンがあり、それぞれファイル保存されている。


出席者7名:

(M)「星に導かれて」とあるのに小磯さんの挿絵が昼なのはどういうことだろう? 小磯さんの絵に星はみたことがない。

(W)夜の近い夕暮れの明るさの感じを思い起こす。私の家は西日が差し夕暮れが特に明るいので。

(I)ヨセフがいない。母子像だけが完結している感じがする。

(S)今まで割と多い「馬小屋の中」で幼な子だけに光が当たっている絵とは全くイメージが違う。明るいですね。

(S)メキシコに行ったとき古代の天文学は進んでいたという話を聞いた。イエスの誕生が星に導かれたとはどういう意味か?

(I)この頃、土星と木星の重なりがあり、それが「王」の栄光を意味するという話があったという。それを、この世の権力のへロデ王に結び付けていた世俗の話を、イエスに結び付け、価値観の転換を訴えたのがこの物語だというメッセージを汲み取る読み方もある。意味深長な三つの宝物、黄金・乳香・没薬(経済、文化、医療を象徴するともいえる)は、イエスに捧げられるべきもの(権力ではなく、幼な子という弱いもの、貧しき者の象徴であったイエスに)というメッセージも出てくる。

 ヘロデかイエスかという選択と決断はマタイのメッセージではないかと思う。「別の道を通れ」との夢の指示も一つの象徴的メッセージではないか。


 小磯さんの「幼な子イエス」にまつわるエピソードをお話します。

「(小磯)先生は、お酒もわりとお好きなほうでした。年に一度ぐらいですが、忘年会か何かのお祝いの会などには出席していただいたものです。たまには少人数の時なぞ、多少アルコールがまわられ、一人、二人、歌なぞ唱ったりして、先生も気分がのられた時、「ぜひ先生唱って下さい」と申し上げると、それではと静かに立ち上がり、はずかしそうに小さな声で、唱われたことが、昨日のように思い出されます。」

『神のみ子の
 エスさまは
 ねむりたまう
 おとなしく
 かいば おけの中にても
 うたぬ わらの上にても』

(石坂春生・洋画家.新制作協会会員『図録 小磯良平展』1997)

 なお、このカタログ(図録)は、小磯没後10年を記念して1997年 神戸市立小磯記念美術館が主催し、大阪・京都・博多・東京・神戸で開かれた際に出版されたものです。この展覧会には「聖書の挿絵」も展示されました。

 この図録の中には「小磯良平再考 –『口語聖書聖画集』をめぐって」という山野英嗣氏(京都国立近代美術館主任研究官)の論文が掲載されています。

 短い論文ですが、小磯の「聖書のさし絵」をその生涯と作品群の中で高く評価しています。その論文の結論部分を引用すると

「その(さし絵制作の)イメージは小磯によって独特の解釈が加えられ、実に現代感覚溢れたものとなっている。この作例にも『時代』と共にある小磯の姿が投影されているものだ」

(p.11)とあります。

 同氏は、小磯の葬儀における私(岩井)の説教も引用しています。

 小磯の葬儀が神戸教会で営まれたとき、同教会牧師岩井健作氏はその説教『神を見る』のなかで、『小磯良平兄の葬儀は、どうしてもここでなければならない訳があります』と語り、生涯を振り返って、小磯の『心には、プロテスタントの精神性と宗教性が知らないうちにゆたかに宿されていたのだ』と続けていた。

(p.10)と記しています。

 今日、皆さんと小磯の「博士たちイエスを拝む」の絵をめぐって話しているうちに、この山野さんの論文を思い出しました。

 この絵は「小磯によって独特の解釈が加えられ」との山野さんの見解にふさわしい一枚です。

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洋画家・小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ

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