1984年12月9日、待降節第2主日
(説教要旨は翌週の週報に掲載)
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)
ローマ人への手紙 15:4-13、説教題「キリストの受容」岩井健作
”キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。”(ローマ人への手紙 15:7、口語訳)
待降節の第二主日です。
教団の聖書日課テキストから学びます。
私は今日のテキストの区切り方を見て「変だなぁ」とまず思いました。
「ローマ人への手紙」14章〜15章は「教会における強い者と弱い者」の問題を扱っています。
その中で15章1〜6節は、強い者がキリストの模範に倣って、弱い者の立場の痛みを担うべきことが勧められています。
子どもの生活文化運動を進めている寺内定夫氏の話だと、最近子どもの逞しさが粗暴さに変わってきているとのことです。
「いじめ」の問題などを考えると、強者と弱者の問題は人間の根本問題であり、同時に現代的問題です。
15章7〜13節は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の問題です。
この2段落(1〜13節)が別々の事柄ではないことを押さえる必要があります。
それが15章4〜13節という区切り方の狙いではないかと思います。
ここを一貫しているものは、語り手のパウロが自らを「強い者」としていることです。
このことは、彼が「弱い者」の弱さを担い切るような者ではないこと、弱い者を抑圧し排除してしまう者としての自覚を持っているということです。
7節の「キリストもわたしたちを受けいれて下さった」の「わたしたち」とは、ある写本では「キリストもあなたがたを」となっています。
”こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。”(ローマ人への手紙 15:7、口語訳)
しかし、ここのところは、罪責多き自らの自覚も含めて、パウロは「わたしたちを」と《キリストの受容》の徹底を言っていると理解する方が原意であると考えます。
抽象的に強い者と弱い者とがいるのではなく、民族問題を含めて、自らの差別意識との絡みで、強者・弱者の問題は存在します。
8節の「僕(しもべ)」という言葉は地上のイエスの十字架の死に極まる生涯を示します。
”わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕(しもべ)となられた。”(ローマ人への手紙 15:8a、口語訳)
イエスの生涯とは、罪人、遊女、地の民という被差別者と共にあった生涯です。
イエスはそれを担いました。
ローマ人への手紙15章1節の「になう」は「十字架を負う」という意味です。
”わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。”(ローマ人への手紙 15:1、口語訳)
パウロは自らそれを担い得ない破れの姿をさらしつつ、なお、この罪ある者をも神が受け入れて下さったのだから、という終末的希望に基づいて、弱者、少数者の受容を訴えます。
森禮子さんの『モッキングバードのいる町』(第82回芥川賞、新潮社 1980)という小説には、米軍将校と結婚した日本人妻が異国の文化のもとで生きる寂寥と孤独が描かれています。
それが逆に、アメリカインディアンの青年をして、アイデンティティーを取り戻させる契機であることを示している作品です。
イエスの十字架が孤独の極限であるからこそ、そこから逆に希望の確かさが示されます。
人を傷つけ差別してしまう自分でありながら、なお《キリストの受容》を信じて生かされてまいりたいと存じます。
(1984年12月9日 説教要旨 岩井健作)




1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)