世の光イエス《ヨハネ 1:9-14》(1984 説教要旨・週報・クリスマス・洗礼式・聖餐式)

1984年12月23日、待降節第4主日、クリスマス礼拝
(説教要旨は翌週の週報に掲載)
受洗・転入5名

(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)

【1984年 神戸教会クリスマス】
12月22日(土)CS石井校クリスマス
12月23日(日)クリスマス礼拝 216名
12月23日(日)クリスマス愛餐会 148名
12月23日(日)CS花隈校クリスマス 91名
12月24日(月)クリスマス燭火讃美礼拝 406名
12月25日(火)CS中高科クリスマス 12名
12月25日(火)青年会クリスマス 17名


ヨハネによる福音書 1:9-14、説教題「世の光イエス」岩井健作

 ”すべての人を照すまことの光があって世にきた。”(ヨハネによる福音書 1:9、口語訳)


 ”すべての人を照らすまことの光”。

 イエス誕生の出来事は、そう言い表されています。

 そのことについて、二つの面に思いを巡らしてみましょう。


 一つは《鋭い光》です。

 ルカ福音書によると、羊飼いたちが夜、野宿をしながら羊の番をしていた時、主の御使いが現れて、主の栄光が彼らをめぐり照らした、すると彼らは非常に恐れた、とあります。

 ”さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。”(ルカによる福音書 2:8、口語訳)

 ここの《光》は、人を鋭く強烈にめぐり照らす光です。

 この「めぐり照らす」という言葉を、著者ルカは、使徒行伝の中のパウロのダマスコ途上での回心の場面でもう一度用いています。

 ここでも強烈な光です。

 この光の前で、パウロは律法を自分の行いの力で充足し、神の前に義を勝ち得ようとする生き方の破綻を経験します。

 羊飼いが光の前に恐れたことについて、神学者K.バルトは50年前の説教で「神の啓示に接した、という大きな恐れ」と言っています。

 クリスマスはこのような「めぐり照らす」光の前で恐れるな、との声を心深く受け入れ、自分のありのままを、恐れず、逃げず、あらわにする時でありましょう。

 このことは、他の言葉で言えば「個」というものを深く自覚し、形成していく基盤を持つということです。

 日本の文化の中で、全体よりは個がまず確立されることの根本的問題提起をし続けることは、聖書の信仰の証でもあります。


 もう一つは《豊かな光》です。

 「すべての人を照らすまことの光」と言われています。

 ”すべての人を照すまことの光があって世にきた。”(ヨハネによる福音書 1:9、口語訳)

 「すべての」という切り込みは、まず私たちの感性の鈍さを照らし出します。

 私たちには自分の生活経験とそれに加えた僅かな想像力の範囲が「すべて」となりがちです。

 しかし、光はそれを超えて輝きます。

 例えば最近、止揚学園リーダーの福井達雨氏が「知恵おくれの人たちを牧師に」という問題提起をして、教団の教師検定のあり方や教会の「障害者」に対する考え方に一石を投じています。

 これを受け止めるのにはなかなか困難がありますが、その過程ではきっと「すべての人を」照らす光の射程の広さに立ちすくみつつも、豊かにされるに違いないと存じます。

 ある人の勧めで『「障害児」とつき合う感性』(宮崎隆太郎、ルガール社 1984)という本を読みました。

 その中では誰もが、それゆえに「障害児」こそ生活経験を豊富にすることの大切さが強調されていました。

 「すべての人」に及ぶ救いは、私たち、経験の豊かさの大事さに目を開かせます。

 ここには神の前の個と並行しつつ、神の前の民(共同体)が照らし出されています。

 内面を深くめぐり照らされつつ、出会いの喜びへと生かされたいと存じます。

(1984年12月23日 説教要旨 岩井健作)


1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)

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