飼葉おけの中のイエス《ルカ 2:6-7》(1984 説教要旨・クリスマス燭火讃美礼拝)

1984年12月24日(月)、神戸教会、
クリスマス燭火讃美礼拝:午後7時半〜8時半
(説教要旨は1985年1月6日の週報に掲載)

(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)

ルカによる福音書 2:6-7、「飼葉おけの中のイエス」岩井健作

 ”ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。”(ルカによる福音書 2:6-7、口語訳)


 皆さん今晩は。

 クリスマスおめでとうございます。

 このようにご一緒に聖歌隊の讃美の歌声を聞き、イエスの誕生を覚え祝うことを心から感謝いたします。

 さて、このクリスマス、皆さんと一緒に「飼葉おけの中に」という一句について思いをめぐらしたいと存じます。

 何故イエスは飼葉おけの中に、と考えますと、それは「客間(新共同訳では”宿屋”)には彼らのいる余地がなかったから」と記されています。

 あの当時の住宅では、家畜も一つ屋根の下にいて、少しはずれた居間が生活や社交の空間であり、また客間にもなったと思われます。

 とすると、客間は《人と人との出会いの場》でもあります。

 今日流に言えばコミュニケーションのある空間です。

 そこから見ると「飼葉おけ」のある場所は、少しはずれた所、当たり前のコミュニケーションからはずれた場を象徴しています。

 《はずれた所のこと》というものは、その当事者でないと気がつきにくいものです。

 被抑圧者、被差別者、弱者、”障害者”、病人、貧困、飢餓、の立場とはそういうものです。

 そして、イエスはそれらの人々に寄り添って生きられました。

 ”丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である”(マルコ 2:17)と語り、その友となられました。

 飼葉おけの中に、すでに「十字架」の影が宿されています。


 今朝の神戸新聞社説「正平調」(1984年12月24日)では、各国首脳の訪問外交が評価され、今は「新しい社交空間」の大事な時代だと説かれています。

 けれども、その並の社交空間からはずれた者に救いはないのでしょうか。

 飼葉おけの中のイエスは、空間に入れなかった者にとっての灯(ともしび)です。


 私は最近、岩崎京子さんの『雪の中のみかん』(日本キリスト教児童文学全集 12、教文館 1984)を読んで感銘を受けました。

 それは、新潟県は山の中、小学校分校の一教師の生徒への愛の物語です。

 その地方の冬は、北西の風と共に粉雪、しが雪、さら雪、わた雪、ぼたん雪、べったら雪、へだ雪、はだれ雪…に明け暮れます。

 下校時、雪崩に逢った2年生の渡辺英次の家は、母は既に亡く、父は東京へ出稼ぎ、姉は静岡の”みかんもぎ”に働きに出て、おばあさんひとりです。

 高井先生は、発熱した英次を背負って7キロの吹雪の夜道を必死で街に向かいます。

 途中、懐中電灯の電池は切れ、表層雪崩に巻き込まれ、もはや体の感覚も麻痺して考える力さえ失い、英次も姉のいる”みかん山”の幻覚すら見て、冷たくなりかけます。

 その時です。

 遠くにきらりと光るものがありました。

 「町だ、町だ、町の灯(あかり)だ。英次、助かったぞ!」

 光る”みかん”のような灯(あかり)を目指して、高井先生は駆け出した、というお話です。

 (『雪の中のみかん』(岩崎京子、日本キリスト教児童文学全集 12 所収、教文館 1984)

 弱者を背負って歩む者に灯(あかり)が見えるのではないでしょうか。

(1984年12月24日 説教要旨 岩井健作)


1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)

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