待降節の希望《イザヤ 51:1-7、ローマ 13:8-14》(1984 説教要旨・週報・待降節)

1984年12月2日、待降節第1主日、社会事業奨励日
(説教要旨は翌週の週報に掲載)

(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)

イザヤ書 5:1-7、ローマ人への手紙 13:8-14、説教題「待降節の希望」岩井健作

”あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。”(ローマ人への手紙 13:11、口語訳)

 宮崎修二著『ひょうご歌ごよみ』(兵庫県書店協同組合発行 1984)の最後に「神戸版讃美歌」として次の歌が紹介され、島崎藤村ら近代詩の源流がそこに在ることの指摘と評価があります。

くらきにねむるつみびとも
じひのひかりにけふよりは
ちりのうきよのゆめさめて
うれしき身とはなりにける

 ここでは「慈悲」という仏教用語が用いられていて、聖書用語やキリスト教神学概念が用いられていないにもかかわらず、神戸教会の初代信徒の「信仰告白」の躍動的様子が伝わってきます。

 当時の信徒たちにとって、キリスト教信仰による生き方が、明治初期日本社会の神戸においてどのように他宗教や社会慣習と関わり、職業や家族生活との関係を捉えていったらよいか、体系的見通しがあったわけではないと思いますし、また宣教師がそういうことまで指示したのではないでしょうから、多くの不安はあったと思います。

 しかし、そこには「救い」を眠りから覚むべき時として捉える「時」の自覚があります。

 この自覚は大切ではないでしょうか。


 「ローマ人への手紙」でパウロは「罪の増し加わったところには恵みもますます満ちあふれた」(ローマ 6:20)と言っていますから、「罪」や「恵み」の自覚は、信仰生活のそれぞれの段階で深化していくものです。

 一定の基準のようなものではありません。

 むしろ、自分が設けた規準から自由にされる所にこそ、眠りから覚むべき時の訪れがあります。

 自分で思い込んだ規準から解放されること(自己義認からの解放、律法から福音への転換)は一回的なことではなく、信仰生活が自覚的に始まる前から、また途上においても何回ともなく繰り返される自覚でありましょう。

 このことを端的に表しているのが、今日のテキスト、ローマ人への手紙13章11節〜14節です。

 ”なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救(すくい)が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。”(ローマ人への手紙 13:11-14、口語訳)


 由井正臣著『田中正造』(岩波新書 1984)を読みました。

 この中で谷中村(足尾銅山鉱毒事件、栃木と群馬の県境、現在の渡良瀬川遊水池、栃木県藤岡町)が権力によって破壊されていく場面で、知識人・木下尚江と田中正造との違いが述べられている所に大変教えられました。

 ”正造の場合は一つのことを理解する、あるいは理解できるようになるのは、理解できなかったときの自分と別の人間になることであった。”(林竹二『田中正造の生涯』(講談社 1976)からの引用部分、上掲書 P.200)

 眠りから覚むべき時の自覚とは、こういう種類の自覚ではないでしょうか。

 待降節は古来《受洗準備の時》としてもたれて来ましたが、それは同時にすでに信仰生活にある者が、もう一度「救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいている(ローマ 13:11)」ことへと目覚める希望の時です。

 ”なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救(すくい)が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。”(ローマ人への手紙 13:11、口語訳)

(1984年12月2日 説教要旨 岩井健作)


1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)

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