2008.2.10、明治学院教会(104)、受難節 ①
(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)
ガラテヤの信徒への手紙 5:13-15
1.私が青年だった頃は、教会の読書会のテキストに必ずと言って良いぐらい取り上げられたのが、マルティン•ルターの『キリスト者の自由』(岩波文庫)でした。
”キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも隷属しない。キリスト者は全ての者に仕える僕であって、何人にも隷属する。”
一見矛盾するような二つの命題は、それぞれにキリスト者であることの本質を述べています。
第一の命題は、たとえそれが”天皇”であったとしても貫かれる、という状況を考えたら、身の引き締まるような命題であることが分かります。
第二の命題は、どんなに力のない困窮した状況でも「仕える」役目の自覚を失わせない人間の主体性と尊厳があることを表しています。
2.ガラテヤ5:13節は第一の命題です。
”兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。”(ガラテヤの信徒への手紙 5:13a、新共同訳)
すぐ後に、第二の命題が続きます。
”ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。”(ガラテヤの信徒への手紙 5:13b、新共同訳)
3.この箇所には旧約聖書からの引用があります。
”自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。”(レビ記 19:18、新共同訳)
この句はルカ福音書にも引用があります。
「善いサマリア人」の譬えの導入部分です。
隣人とは「強盗に出会った人を助けた者であった」と「隣人」が社会的広がりを持っています。
ところが、ガラテヤの信徒への手紙では、そういった広がりがありません。
”だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。”(ガラテヤ 5:15)とありますから、ガラテヤの教会の内輪のことを言っているようです。どうも「隣人」の次元が低い話のようです。
しかし、一番卑近なところが大事で、そこを通り抜けて物事が進むわけではありません。まず、それぞれが逃れてはならない場があります。
「自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」とイエスが言われているところです。
”「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”(ルカによる福音書 9:23、新共同訳)
「自分の」は自分で決断する以外にはできない場であることを、その都度、祈って選び取る生き方です。
4.古い諺に「隗(かい)より始めよ」があります。
中国の戦国時代、燕の昭王(BC3C)が天下の人材をどうすれば集められるだろうか、と郭隗(かくかい)に尋ねたところ、「まずこの私、そんなに優秀ではない隗を優遇してみてください。そうすれば、私以上の人材がそれを伝え聞いて、たくさん集まって来るでしょう」と答えた故事から来ています。
遠大なことを成す時は、まず卑近なことから始めよ、転じて、物事はまず言い出した者が着手すべきであるという意、と辞書にあります。
5.私たちが携わっている、色々な出来事、問題、課題、運動、奉仕、実践には、それに縛られ、絡め取られてはならない自由が必要です。
「はいそこまで」という神の招きの声を聞くことです。
同時に、状況に向かって、もう一歩踏み込む勇気です。
「神は細部に宿り給う」との言葉が招きます。
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