2008.2.24、明治学院教会(105)、受難節 ③
(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)
ガラテヤの信徒への手紙 5:16-25
1.パウロはこの箇所で人間のあり方を「”肉”か”霊”か」の状態で考えている。
”肉”は旧約では”バーサール”。人間や動物の”肉”。肉親・血縁。永遠なる神の前で、弱く、死ぬべき存在の意味。新約では”サルクス”。旧約の意味を含めつつ、パウロやヨハネでは「肉と霊の対立」で用いられることが多い。
2.「肉と血は神の国を継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント 15:50、新共同訳)と、パウロは”肉”が神から絶縁していることを述べる。
今日の箇所 ガラテヤ 5:19-21節でも、”肉の業”(19節)の悪徳表をあげて「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤ 5:21)と強調する。
3.”肉”はパウロの場合、人間が他者と関係を持たないで、それ自身で充足する在り方を示す。それは、関わりを持ったとしても、自分中心な関わりに留まる。
関係は双方が関わり合うことで初めて成り立つ。
相互性のないことを”肉”という。
4.ガラテヤ書簡で、パウロは終始、「律法」に基づく生き方を批判してきた。
特に「割礼」を救いの手段として強要するユダヤ主義者には、次のように自己完結(肉)の破れの自覚を鋭く批判した。
”割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。”(ガラテヤ 5:3、新共同訳)
5.”霊”は自己中心・自己完結が破られていく関係。
パウロは、「信がすでに来たった今」(ガラテヤ 3:25、田川訳)、「愛によって働く信」(ガラテヤ 5:6、田川訳)の「恵み」の受容と理解する。
こちらから関係を作ろうとすると自分中心になってしまうので、それとは逆に、ただひたすら「受ける」以外にしかない関係を「恵み」と表現し、神の恵みを受容し続ける在り方を”霊”という。
絶えず「開かれた関係(自由)」である。
6.だから、冒頭に次の促しが来る。
”私は言う、霊において歩むがよい。”(ガラティア 5:16、田川建三訳)
”わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。”(ガラテヤ 5:16、新共同訳)
神の恵みの現実を生き始めることへの招きである。
「恵みの生活化」である。
「恵み」とは、神との人格関係が、神からのものとしてだけあること。
その確かさを「生きよ」と言う。
ヨハネ的表現によれば「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった」ということ。
マタイ福音書的表現によれば「空の鳥を見るがよい、蒔くことも刈ることもしない、それなのに天の父は彼らを養っていてくださる」ということ。
パウロ的表現をすれば「今や神の義が律法とは別に…現された」ということ。
7.注意したいのは次のように言われている点。
”霊において歩むがよい。そうすれば肉の欲を完遂することはなくなるだろう。”(ガラティア 5:16、田川訳)
「恵みの生活化」は客観的に”肉”や”霊”かを見据えた選択ではない。
”肉”を避けるのではなく、それを自覚的に抱え込みながら(無病息災ではなく一病息災の如く)生きること。
8.この週、19日以来、朝日新聞の一面見出しは全て「あの事件」。
「イージス艦、漁船団を避けず直進」
世界を覆う強烈な”肉”のイメージを、いのちを蹴散らすイージス艦の舳先に見た。
「軍隊」はその存在が関係的生き方(霊・いのち)を否定する。
霊において歩まなければ!
いのちを生き、守り、その思想を育まなければ!
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