埋(うず)み火(2008 礼拝説教・ガラテヤ⑯)

2008.3.2、明治学院教会(106)、受難節 ④

(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 6:1-10

1.身の回りには使い込んだ良い道具があると思います。

 使い込んでこそ良い物の味が分かります。

「恵み」が宝の持ち腐れにならないよう、パウロは「霊において歩め」(前回:ガラテヤ 5:16)と恵みの生活を促し、続くガラテヤ6章ではその徹底を説きます。

2.1−5節。

”兄弟たちよ、もしも誰かが何かの過ちに陥ったとしても、霊の人であるあなた方自身が柔和な霊をもってその人をもとにもどし、あなた自身も誘惑に陥ることがないよう気をつけなさい。互いの重荷を負いなさい。そうすればキリストの律法を全うするであろう。すなわちもしも誰かが、実際はそうでないのに、何者かであるとみなされているとしたら、その人は自分自身を欺いているのである。それぞれが自分自身の業を自分で検証すべきである。その時には、誇れるのは自分に対してだけであって、他に対しては誇ることはできないだろう。それぞれが自分の荷を負うことになるのだから。”(「ガラティア」6:1-5、田川建三訳 )

”兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。”(ガラテヤの信徒への手紙 6:1-5、新共同訳)

「霊の人であるあなた方」(ガラティア 6:1、田川訳)は、一方で「救いの確かさ」を自覚させ、罪過に陥っている隣人との関わりを通して、一段と高い所から審くのではなく、「柔和な心」(6:1、それはまさにイエスそのもの、「柔和な霊」田川訳)で接することを勧めます。

 罪過は具体的に示されませんが、”肉”の人の端的なあらわれでしょう。

 同時に、今一度、自己検討を迫ります。「まず隗より始めよ」(前々回説教)です。

3.6節は、教会の伝道者を経済的・物質的に支えることへの促しであります。

”御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。”(ガラテヤ 6:6、新共同訳)

 7節以下は「蒔く、刈る」の表象を用いながら、善を行うことを勧めます。

”思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。”(ガラテヤ 6:7、新共同訳)

 広い意味で、福音の真理を身をもって証しする人との連帯が示唆されています。

 ”霊”の生き方か”肉”の生き方か、連帯に生きるのか、自分本位に生きるのか、その結果は各自が刈り取ることになると。

 歴史の中には、おざなりでなく身をもって福音を生きて証しする”霊”の人が迫害され、虐げにあっていることは、いつの時代にも存在します。

 マタイ 5:10には「義のために迫害されている人たちは幸いである」とあります。

4.現代のそのような人を思い浮かべよと言われれば、私たちはそれぞれに思いが巡ります。

 例えば、時の流れに逆らっても医療現場で、患者本意の、地域本意の医療をしている医者(中村哲さん)がいます。

 卒業式の「君が代」の時に席を立たなかった教師は、自分が教師として今までやってきたことの証しのためにも「子供たちの前では立てない」と言いました。

 388人もが職務命令違反で処分されました。国旗・国歌法が出来たときには、決して強制はしないと総理大臣が国会で答弁したにもかかわらず。自分の信条を貫くことで迫害を受けています。

 キリスト者の音楽の教師が、良心から「君が代」の伴奏はできないと拒否をしたら処分されました。

5.昔は、家に囲炉裏があって、火を落とし、灰をかけて、熾(おき:炭火)を埋(うず)み火(灰に埋めた炭火)としました。

 それを起こして、新たに粗朶(そだ:細い木の枝の束)をくべると燃え上がりました。

 私の尊敬する信仰の先輩は、自分は「埋み火」のような存在でありたい、と言っていました。

 その方の短歌には信仰が滲み出ています。


 かの日受洗して幾十年ただ茫々として視野は広がる

 つきつめてしもべ一人がためとなりし一会(いちえ)の思ひあたためて来しを

 あらたま年の始めといふこゑにイザヤ書五十三章身に沁みて読む

 ともに老いてともに旅行く幸いに朝なあさなの食事の祈り

 子供らは家を離(さか)りて妻とのみ「埋み火」と言いてかそけくもあり

(『山下長治郎歌集』より)

(サイト記)上掲の一首は、健作さんへの最後の年賀状に添えられた歌であった。「山下長治郎歌集」の評伝•あとがきに、健作さんは次のように書いている。

”その年(1993年)の元旦、これが最後の年賀状となったが、筆者宛のものへの添書きに”ともに老いてともに旅ゆく幸ひに朝なあさなの食事の祈り”とあり「この貧しい祈りに牧者として…とりなしのおいのりを願います。」とあった。とりなしの祈りを続けていたのは実は山下なのである。教会の祈祷会を欠かしたことはなかった。”


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