十字架、その重さ(2008 礼拝説教・ガラテヤ⑰最終回)

2008.3.9、明治学院教会(107)、受難節 ⑤

(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 6:11-18

1.「ガラテヤ」の最終段落。

 パウロは自筆で最後のまとめを強調する。

2.12−13節。

 ガラテヤの(キリスト者)律法主義的指導者を再度(5:2-12を要約)3点で批判をする。

(1)”肉”において(割礼で)人からよく思われたがっている(原語は”いい顔”)。

(2)十字架のゆえに迫害をされたくない(当時、ナザレのイエスに従う生き方をした)。

(3)強いて割礼を受けさせようとする(ユダヤ教の人たちを意識した業績主義)。

3.14節。

”しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。”(ガラテヤ 6:14、新共同訳)

 パウロは「イエスの十字架の死」という壮絶な、この世で最も無力な姿における神(フィリピ 2:6-8)に出会った。

 律法という手段の自力救済を全うする「力」はもはや誇りとはしない。

4.「ガラテヤ」で一句選べと言われれば、私は3章1節の「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(文語訳)をあげたい。

「現在完了形(分詞)」のニュアンスをよく訳している。

 今でも十字架につけられたままでいる、と。

 実際は、イエスは十字架から降ろされ、埋葬された。

 そして聖書の信仰によれば、神はイエスを「起こされた(復活させられた)」。

 パウロはこの「復活」のキリストを「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」という逆説的語り方でその内実を表現した。

「復活」とは、十字架の弱さの逆説である。

 ガラテヤのユダヤ主義者は割礼を誇る。

 しかし、パウロは「ままなるキリスト」を誇る。そこに十字架の重さがある。

5.15節。

「世」は力の関係の総体を意味している。しかし、もはや決定的意味を持たないし、そこに依存もしない。

 新しく造られることこそ重要。

”割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。”(ガラテヤ 6:15、新共同訳)

 16節。

 この(十字架の)法則(基準)の側に並ぶ人々の上に「平和と憐れみ」が祈られる。「神のイスラエル」はキリスト信者になっていないユダヤ人のこと。

”このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。”(ガラテヤ 6:16、新共同訳)

 17節。

”これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。”(ガラテヤ 6:17、新共同訳) 

「イエスの焼き印を身に帯びている」。”スティグマタ”(ここだけで用いられている。「徴」)。

 迫害された経験が身体に傷痕を残している。刻み込まれた生き方の現れ。Ⅱコリント 11:23-30を朗読したい。

”キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。”(Ⅱコリントの信徒への手紙 11:23、新共同訳)

”誇る必要があるなら、わたしの弱さに関する事柄を誇りましょう。”(Ⅱコリント 11:30、新共同訳)

「身体(”ソーマ”)」は肉体というより、身に帯びた生き方、在り方。

6.田中正造(林竹二『田中正造の生涯』講談社現代新書 1976)とキリスト教との関係の研究が進み、新井奥邃(おうすい)からの影響が注目されている。

 正造が、鉱毒反対に命をかけた働きで人民を指導する心境から、谷中村の農民を「人民様お付き添い正造」と書簡に署名するに至る迄、身に帯びてゆく信仰が垣間見られる。

「現実を救い給へ、ありのままを救い給へ」。

 正造は最後の言葉を書き残している。

 正造の重い現在は「ままなるキリスト」の「現在完了」で担い続けられている。

 そこにありのままの救いがある。


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