2008.3.23、明治学院教会(108)復活日(イースター)
(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)
マルコによる福音書 16:1-8
1.今日お読みした「マルコ福音書 16:7節」に次のようにあります。
”さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」”(マルコによる福音書 16:7、新共同訳)
2.ここから3つのことを学びます。
(1)「あなたがたより先に」
ここには「神の先手」という”福音的出来事”が示唆されています。
聖書の基本テーマです。
聖書には”主語”がある。
創世記の冒頭「神は天地を創造された」の「主語が神」であることです。
新約聖書のヨハネ的表現で言えば「神がわたしたちを愛して」ということです。
この出来事のバリエーション(変化)が聖書の記述だと言っても過言ではありません。
(2)「ガリラヤへ行かれる」
日常性への回帰です。
「死」は日常性の断絶。十字架の死は、権力の傲慢・横暴、人間社会の罪の集積の総体、絶望の象徴です。
「甦り」は、イエスの生涯の物語をもう一度繰り返して生きよ、という促しです。
「復活」はそれだけが存在するような即時的出来事ではありません。
「十字架の死」という歴史の最も暗い闇を突き抜けて、再び日常へと新しい旅立ちを可能にする、神の招きと命の物語です。
(3)「ペトロに告げなさい」
ペトロとは誰でしょうか。
「網を捨ててイエスに従った人」(1:18)、「あなたこそキリストです」と告白した人(8:29)、「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても」(14:31)と意志的な決意の堅い弟子です。
しかし、硬質であるだけに、鶏が二度鳴く前に三度イエスを知らないと裏切り「いきなり泣き出した」(14:72)挫折の人です。
このペトロに、その一切を抱えて「もう一度生きよ」というメッセージが伝えられます。
信仰者が意志的であるのは半面(求道的)です。しかし、それを緩められ生きる時、宗教性のある人間へと成熟するのではないでしょうか。
(サイト記:上記文章の太字斜線部分、解読できませんでした)
3.ジェローム・デイヴィスは、その生涯を閉じる3日ほど前に、女婿オールズ夫妻が「何か遺言ありや」と尋ねた時、「My life is my message.(我が生涯は我が遺言である)」と答えたという有名な話があります。
『同志社90年史』は、このことを「語り得て至言と言うべきであろう」と記しています。
デイヴィスとは誰かを語ろうとすれば、彼の生涯を初めから辿らねばならない。
喜びも悲しみも《神に支えられて》人間的なるものが込められた一人の人の生涯が福音の出来事の証です。
4.まして、神の業である「イエス・キリストの福音」を知ろうとするならば、その物語の「初め」(1:1)から筆を取りますよ、という主張が「マルコによる福音書」なのです。
これは、福音を教義にまとめた、エルサレム教団を中心とした理解への、いわば挑戦です。
宗教は、日常や歴史の捨象や超越ではなく、そこで十字架を負う力だ、とマルコは「甦り」を告げているのです。
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