愚かな金持ちの譬え(2008 聖書の集い)

2008.3.26 「福音書の中のイエスの譬え話」第13回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

ルカ福音書 12章16節−21節 「愚かな金持ち」のたとえ 新共同訳

 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

1.譬えの筋。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい…「…食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる……』と」(新共同訳)

2.「ある人」、大地主。「作物」、脱穀前の穀物。原文は「私の作物」と「私の」がついている。ただ単に「作物」という訳は適訳ではない。所有の意識だけが前面に出ている。「畑」(”コーラ” 陸地、地域、地方、耕地)は大土地所有者の「領地」を意味する。「倉」は複数形。21節「自分のために宝を貯めて、神に対して富まない者はこのようになる」はルカの教訓。譬えからは少々ずれている。

3.「死んだら財産は役にはたたない」は古代人の一般的考えで、イエスの独創ではない。富める者も貧しい者にも「死」は訪れる。金持ちの地主に対してこの自明の知を直裁に向けた点にイエスの感性の鋭さが現れている。

 小作の労働がなけれ収穫はない。この視点が全く欠落している。その点で、地主は人間としての基本的つながりが欠けている。富に対するイエスの直観的な反発(田川)。

4.富を独占しても、命がなければ、どうするのか。はなはだ現代的な示唆に富む。生物学的な生命を含めて、人は一人では生きられない。この自明な原理の欠落の問題は、環境(地球温暖化)、経済(新自由主義のもたらしている極端な弊害)、社会(貧困、格差)、政治(民主主義の形骸化)、教育(権力の介入)、医療(不均衡)など、様々な分野で在り方を問うている。