2008.2.3、明治学院教会(103)
(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)
ガラテヤの信徒への手紙 5:1-12
1.「信仰とは何か」
持ち物のように表現する人がいる。
「あの方は立派な信仰をお持ちである」など。
その立派な方が、時として狼狽や不安で最後を迎えられたと、老人ホームの関係者から聞いた。
「人は生きてきたように死ぬ」と語ったのは、日本のホスピスの先駆者、医師•柏木哲夫氏である。
2500人もの死を看取ったことの結論だと柏木医師は語る(『人生の実力 ー 2500人の死をみとってわかったこと』柏木哲夫、幻冬社 2006)。
いざという時、役立つ信仰などというものはない。
2.ガラテヤ書の5章で「愛の実践を伴った信仰こそ大切です」を読むと、日頃から愛の実践をしておかないと、いざという時、信仰が役立たないのではないか、とふと思ったりする。
とすると、律法の実践、特に割礼の効用を真剣に説いて、ガラテヤ教会の信徒を誘ったエルサレムのお偉いさんを厳しく批判したパウロの論理とは少し違うのではないか、という気がしないでもない。
この箇所の理解がどうも曖昧なままというのが正直な気持ちである。
3.ガラテヤ書のパウロの論旨から言うと、人が救われるのは、割礼を受けるからではないという。
律法は救済の手段にならない。律法を守ることは、自分の力を神の前に積み上げることで、どんなに積み上げても、それは完成に至らない。
パウロの救済の到達点(回心)は、その力の尽き果てたところで、「十字架につけられ給ひしままなるキリスト(神)」に出会ったことに他ならなかった。
彼の破れと弱さの極みで、弱さの極限に救いを啓示する「十字架の神」の逆説があり、そこにこそ生かされたのがパウロであった。
4.だから、ガラテヤの異邦人信徒が、割礼に唆(そそのか)されたことが許せないで、激しくこの書簡を記した。
割礼に傾くなら「律法全体を行う義務がある」と言う。
「義とされる」(4)ためには、大事なのは「いただいた恵み」だと言う。
しかし、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」を我々の側の「信仰の努力」に理解すると、どうも文脈が混乱する。
ここの原文には「愛によって働く”ピスティス”」とある。
”ピスティス”は当然、我々の側の信仰を意味する場合もある(2:16、20)。
しかし、常に”私たちの信仰”の意味ではない。
”ピスティス”は3章5節では「神がわたしたちに真実な関係」を持ったという意味である(「信がすでに来たった今」田川建三訳)。
5章6節は「愛が基礎にある神の”ピスティス”」と理解すれば筋が通る。
愛の実践を伴わないと信仰はダメですという説教ではなく、ヨハネにあるように(3:16)、神は独り子を遣わされるほどに世を愛して下さった、というイエスの出来事を伴った神の我々人間への真実こそが大事だという。
5.「われ信ず、信仰なきわれを助け給へ」(マルコ 9:24、文語訳)は、「信仰とは」を語る有名な福音書の句である。
信仰は「信仰なきわれ」の自覚と共にある。
「愛の実践」はイエスの出来事全体であることに心を注ぎたい。


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