イサクの場合のように(2008 礼拝説教・ガラテヤ⑫)

2008.1.27、明治学院教会(102)

(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 4:21-31

1.今日の箇所に「アブラハムには二人の息子があり」(22)とある。

”アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身分の女から生まれたと聖書には書いてあります。”(ガラテヤ 4:22、新共同訳)

 何も知らない人は、平穏な二人兄弟を想像する。

 実は、そうではない。旧約創世記16章以下にその物語はある。

 アブラハムには子供がなく、妻のサライは一計を案じ、女奴隷ハガルをアブラハムの側女(そばめ)として子供を産ませる。

 この計らいを、ガラテヤ書のパウロは「女奴隷の子は肉によって生まれた」(23)と表現する。「霊による」(29)の対義語である。

 現代語に意味を言い換えれば、「肉」は自分中心の計らい、自分の側の都合、を意味する。結果は、家庭が修羅場となった。アブラハム86歳の苦悩である。

2.しかし、彼が100歳の時、神の約束で妻サラに子供が与えられた。それが奇跡の子イサクである。

3.パウロは、この物語には「別な意味が隠されている」と、少し強引な論理を展開する。

 ハガルは、シナイ山に由来するモーセの律法を象徴し、それが「今のエルサレム」だと言う。エルサレムはユダヤ教の本拠、律法信仰の母体である。

 多分、ガラテヤの人々に律法による割礼を強制した人たちが「我々の母はエルサレムだ」と言ったのだろう。

 パウロは「今のエルサレム」を本来のガラテヤ書のテーマ「律法による生き方批判と克服」へと結びつける。人間的計らいを律法に投影させた閉塞性を、かつて律法主義の鬼であった自分の生への自戒を込めて「奴隷」と表現した。

4.それに対して、神が主導する約束の関係を「天のエルサレム」(26)と言う。

 その出来事を受容する生き方を「奴隷」に対して「自由の身分の子」と述べ、これが「わたしたちの母だ」と言う。

 その後、イザヤ書 54:1を引用する。イスラエル民族の捕囚からの解放の文脈の「新しい祝福」の言葉である。

 イサクが徹底して神の祝福の子であったように、ガラテヤ教会が誕生したことは「神の祝福」によるものだ。それは、律法を遵守する、人間の側の努力や強さの集積ではなく、神が「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」に自らを露わにした故に、力を示す(律法)のではなく、弱さの極みに共にたたずむ(十字架の福音)在り方へと召されている。

5.31節は結論。

”この故に、兄弟たちよ、我々は奴隷女の子であるのではなく、自由な女の子なのである。”(「ガラティア」4:31、田川建三訳)

”要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。”(ガラテヤ 4:31、新共同訳)

 つまり、人間的な思惑や、計らいや、努力、実績といった、律法の影にまつわるようなものに縛られなくともよい。

 束縛されて、奴隷のような人間の内からのものではなく、その思惑の外からの、あるいは上からの、関係を与えられ、身の自由を覚える生き方に変えられているのだ。

 人間的計らいから自由にされるということが、イサクの場合なのだ。

 イサクの場合のように「生きよ」というメッセージを受け取ってゆきたい。



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