新しい布切れ、新しいぶどう酒の譬え(2008 聖書の集い)

2008.1.23 「福音書の中のイエスの譬え話」第9回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

マルコ福音書 2章21節−22節 新共同訳

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。」

(予告)「新しい布とは、まだ晒していない布切れで縮む力を持っている。新しいぶどう酒は発酵しつつある生命力を持つ。イエスがこのよく知られた諺的慣用句で何を表現しようとしたのか。この譬えはイエスの存在を暗示しているのではないか。イエスとはだれか。聖書への関心をそこに向けさせる譬のような気がする。」

マルコ 2章21節−22節(平行記事、マタイ9:16以下、ルカ 5:36-38、トマス47b)

1.「新しい」というイメージはマルコが文脈に入れたもの。「まだ晒していない」「きぬたづちで打っていない」「織りたての(新共同訳)」布。最初に洗った時にひどく縮んで古いものを破く。ここが比喩の中心。ぶどう酒も発酵のゆえに生成過程にあるものの生命力が古い皮袋を壊す。

2.イエスがどのような状況で語ったかは分からない。生成途上のエネルギーとしての自己理解が伺われる。それはイエスの思想と振る舞いの全体から掴み取れる。既成のもの、定まったものの枠を突き破っていく生命力。人間の在り方を固定的な観念から捉えない。常に途上の力として理解したところに特徴がある。ユダヤ教律法を止揚する力。

3.マルコは、これを2章18節から20節の「断食についての問答」の結論部分に引用した。「断食」はユダヤ教の大事な戒律の一つであったし、初代教会もそれを受けついでいた。イエスが宗教的観念としての断食を否定したのか、断食に現れた宗教的偽善を批判したのか、いずれにせよ積極的に断食はしていない。貧しい民衆にとっては「飲んだり食ったりする」(マタイ 11:18-19)ことこそが日常的喜びであった。それを否定するような宗教性を疑問視した。トマスはこの譬えを「二人の主に兼ね仕えることはできない」という言葉で説明に用いる。

4.イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と、ガリラヤでの宣教を始めた。これは予言者が到来を久しく切望していた「救い」の到来であった。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の聞けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(イザヤ 35:5f)。イエスは、喜びの「婚礼」を「神の支配」の象徴として用いた。断食とは断絶している。それは、もはやユダヤ教の枠内にイエスのもたらしたものを位置付けることは無駄であり、できないということを告げている。

5.現代の私たちは「福音」の到来を、古いものを破る力として受け取っているであろうか。

(サイト記)「予言者」の表記はそのままとしました。

前後の集会

2008年
1月16日 家庭集会(参加4名)
1月20日 明治学院教会礼拝説教
1月23日 聖書の集い(本テキスト)
1月24日 神奈川教区基地問題小委員会(高座渋谷教会)
1月26日 講演会「部落差別と宗教」(藤野豊氏、富山国際大学)(鎌倉恩寵教会) 主催・神奈川教区部落差別問題委員会
1月27日 明治学院教会礼拝説教、礼拝後「聖書の学びと祈りの集い」