途方に暮れるパウロ(2008 礼拝説教・ガラテヤ⑪)

2008.1.20、明治学院教会(101)
ガラテヤ書の連続説教再開。

(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 4:8-20

1.「ガラテヤの信徒への手紙」の続きを学ぶ。

前々回⑨「目に見えない財産」(2007年11月18日)
前回 ⑩「キリストのかたち」(2007年11月25日・聖書箇所重複)

 おさらい。

 パウロとは。パリサイ派のユダヤ教徒。キリスト教徒の迫害者であったが、転向・回心を経験し、初期キリスト教最大の伝道者として働く。

 中心思想は「人が神に受け入れられるのは、ただ神の恵みを信じる信仰によるのであって、律法の行いによるのではない(信仰義認論)」。

 13あるパウロ名の書簡のうち、7つがパウロの真筆。

2.ガラテヤでは、パウロの福音理解を受け入れた人々がユダヤ主義の人たちの唆(そそのか)しにより、「割礼」に縛られ、律法順守の影響を受けて逆戻りをした。

 これに対して、信仰義認への復帰を強く促した手紙。

 今日の箇所は、新共同訳では「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」と題し(新共同訳聖書の小見出し)、律法主義に戻ってしまったことに対して、福音の再伝達に苦労している箇所。

3.ガラテヤ 4:9節「諸霊 ”ストイケイア”」は、宇宙の調和維持の力。

これを乱す者は復讐を受けるという、当時のヘレニズム・ユダヤ教の思想。歳時歴(いわゆる、日・月・時節・年など)の遵守が宇宙の調和に従うことであった。

 基本的に律法遵守と同質の自分中心・自分本位・自己充足・自己完結の「強さ(罪)」に生きる姿。

 それに「死ぬこと」が「恵み」を受けることであった。

 自分の努力に頼る「強さ」に破れ、己の「弱さ」において出会うのが「十字架の姿の神(福音)」であった。

「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」(ガラテヤ 3:1)で示された神を、(本当には)ガラテヤの信徒はわかっていないので、苦労するのがパウロ。

”しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。”(ガラテヤ 4:9、新共同訳)

 パウロは次のように説くことはできるが、「伝達」が如何に難しいかで「途方に暮れる」。

”わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。”(ローマの信徒への手紙 6:6、新共同訳)

4.パウロは語調を変えて語るという。

”わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。”(ガラテヤ 4:19-20、新共同訳)

「押してダメなら引いてみな」という心境。

 パウロはコリントでも同じ経験をした。

「あなたがたのことで途方に暮れている(”ア・ポレオー”:手段・道がない)」。

 しかし、「途方に暮れても失望せず」(Ⅱコリント 4:8)とここでは言う。

 宣べ伝える者の務めについて「憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられている」といっている。だから「落胆しない」という。

”ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。”(Ⅱコリント 4:7-10、新共同訳)

「死への回帰」への促しがある。

5.伝達の破れたところから、宣教(伝道)の活動は始まる。

 


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