2007.11.25、明治学院教会(95)、降誕前 ⑤
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
ガラテヤの信徒への手紙 4:8-20
1.ガラテヤの手紙でパウロはその主旋律「律法から福音へ」を響かせる。
手紙はその変化(バリエーション)を繰り返す。そこを掴めばこの「手紙」は心に響く。しかし、ここを掴み損なうと「難しい」で終わる。
2.この箇所も主旋律は明確である。
人は「神」(頼るもの、絶対化の視点)なしでは生きられないのであろうか。
ガラテヤの人々は「神でない神々に奴隷として仕えて」(ガラテヤ 4:9)いた。だが「神々」なしで生きることの自由を獲得させたのが、「福音の神」であった。
福音の神は、人が「神」を求める前に、神が先手を取って、「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」(3:1)の姿で、我々への関わりを成し遂げられたかみ(弱さの極みの神)である。
我々がありのままの弱さを認知し受容した時、そこにすでにいまし給う神。
「弱さ」がそのまま自らの「主体性」に転換される「奇跡(驚くべきこと)」を起こされる神なのである。
「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(4:9)は、福音の神の主旋律を語っている。
律法の神は、律法という自己実現の梯子を登って神に近づく努力をさせた。だから4:8-11節でパウロは、ガラテヤの人たちが「あの者たち」(4:17)にそそのかされ、絡め取られて、律法の神に「逆戻り」(4:9)し、律法とその現れである「日・月・年」といった社会習慣の「奴隷として仕える」(4:10)ことを「心配」(4:11)する。
3.ガラテヤの人々の「福音信仰の受容」は、4:13-14節に語られているように、パウロという”器”を受け入れることを通しての「神の恵みの受容」であった。
「(パウロが)体が弱くなったことをがきっかけで」(4:13)は、パウロのガラテヤ伝道初期をうかがわせる。彼は目を悪くしていたのであろうか(4:15)。私たちも信仰の初心を大切にしたい。
4.「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(4:19)。
教会はある一面で、人が集まり、制度が整い、財政があり、建物が与えられ、信仰告白や神学が吟味されるところで形を成してゆくことも必要であろう。
しかし、その根本で、もし「十字架につけられ給ひしままなる」姿で「世の苦しみを負われたイエスの生と死」が、追従されてゆく信仰者の実存から忘れられたならば、教会の形はこの世のもろもろの霊力に再び宿りを与えるものとなろう。
「キリストのかたち」ができることは「産みの苦しみ」と言われるほどに厳しいことだと思う。
しかし、神に知られていることの確かさがそれを支える。
”ガラテア書のある一行に目を遣(や)りしまま茫々と週末を越ゆ”(岡井隆)
岡井さん(医師•歌人 1928-2020)はどこに目を遣ったのであろうか。
◀️ 2007年 礼拝説教
(第3版)“教師退任勧告決議”批判と克服をめぐって
−「法」のキリスト教から「生死」のキリスト教へ(2007 北村牧師支援)
2007.11.20 加筆執筆