二人の息子の譬え(2007 聖書の集い)

2007.11.28 「福音書の中のイエスの譬え話」第6回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

マタイ福音書 21:28-32 「二人の息子」のたとえ

1.資料的にはマタイの特殊資料(マルコ、ルカにはない)。

2.マタイはこれを洗礼者ヨハネに関連させる。この解釈は根源的ではない。ヨハネに対立したグループが後で考えを変えた事実はない。歴史的裏付けがない。

 32節はルカ7:29(徴税人がヨハネのバプテスマを受けた)では独立している。マタイは32節の結論があってこの譬えを導入したと研究者は指摘する。マタイ自身の理解する救済史の流れ(旧約の預言者の出現、最後の審判、異邦人への伝道)で理解する。

3.問い掛け

「イエスがこういうお話をしたのはなぜだろう。

 “後で考え直す人”はきっと自分の言葉と生活のずれに悩む人だろう。でももう一方に、言葉と行動や実際の生活に悩まない人がいたに違いない。当時それはどういう人だったのか。

 それをこのイエスの譬え話から想像してみたい。」

4、当時の律法学者やパリサイ人の思考は、律法に照らしてどうか、だけが問題であった。「考え」は固定的、律法的。

「(彼らは)言うだけで、実行しないからである」彼らについてのイエスの意見(23:3)

「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(23:4)

「自分はどうか」への考えがない。

 問い掛け、語りかけを必要としない人間。

5.それに対して、何ら律法的・宗教的主張をしない取税人や遊女らは、現実のなかで、ぎりぎりの生存を突き付けられているから「これでよいのか」と悩まざるを得ない。

 問い掛け、語りかけ(神の招き)を必要としていた人間である。

「あなた方は神の招きに心閉ざしたが、軽蔑された者たちが、神の招きに心を開いて受け入れられた」と一方で律法学者を批判し、他方で、人格の関係を求めていた者たちの存在を受け入れている。

6.現代の文脈でも問い掛けは変らない。

7.働くぶどう園がある事(神はそれぞれの役割を与えて生かし給う)への示唆が素晴らしいことだと思う。

マタイ 21:28-32 「二人の息子」のたとえ 新共同訳

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、あとで考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

前後の集会

2007年
11月27日 神奈川教区基地小委員会
11月30日 川和保育園園児礼拝 お話
12月1日 横浜YMCA専門学校合同クリスマス礼拝 説教