2007.11.18、明治学院教会(94)、降誕前 ⑥
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
ガラテヤの信徒への手紙 4:1-7
1.パウロは自分の自己理解を「(神は)わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった」(ガラテヤ 1:15)と言います。
しかし、現実のパウロは、人生の半ばまでキリスト教徒を迫害していた人です。
それは「神は律法によって自らを示される」ということを堅く信じていたからです。
しかし、神は律法ではなく「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」(3:1)の姿で自らを示されたことに気付かされた時、律法を自分の努力で実現する強い生き方から、律法を完全には守れない「弱さの極みにある自分のありのままでよいのだ」という恵みに生き方を変えられたのです。
パウロの「律法から福音へ」の回心です。
他の表現で言えば、パウロにとって「神関係」は初めから変わらないのです。
これは「目に見えない財産」です。
けれども、その財産に対する認識が全く変わります。つまり「神理解」が変えられたのです。
2.彼は振り返って、律法の束縛がいかに強靭で、暴虐なものか、を思います。
それは、ガラテヤの信徒たちが、一度はパウロが経験している「福音」に繋がったのに、今、エルサレム教会からの律法主義者に脅かされて、「律法」の束縛に戻ってしまったからです。
それを再び「福音」に連れ戻そうとする、並々ならぬ手紙が、このガラテヤの書簡です。
3.パウロは前段落(3:23以下)で、「キリストが到来した」という客観的出来事を強調しました。
「しかし、信仰(キリストの信 ”ピスティス”)が現れたので」(3:25、新共同訳)。
田川建三訳では「信がすでに来たった今」。
このことをパウロは次のように言い換えています。
”時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。”(ガラテヤの信徒への手紙 4:4、新共同訳)
ここでは、人間の歴史の真っ只中に「来たった」ことが強調されます。
4.そして、律法の終焉を、財産相続(ヘレニズム法:未成年者は潜在的に子としての相続者であるが、後見人や管理人の厳しい監督の下に置かれていた)の例をあげて、福音による「律法の束縛からの解放」を再度強調します。
5.更に、律法の束縛からの解放が、意識の世界の事柄とすれば、人間の無意識や意識下の束縛からの解放の問題に触れます(「”ストイケイア” 世を支配する諸霊」からの解放:新共同訳)。
自由の徹底です。また自由は固定された「子」の身分としての状態ではなく、絶えず内側から新しくされていく「関係の力」として捉えられています(「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊が与えられていること)。
6.永井隆(1908-1951 享年43)。
長崎原爆で被爆後、献身的に被爆者治療に取り組んだ医師。カトリック。
永井が白血病の療養で最期の日々を送った如己堂(にょこどう:長崎市)は「見えない遺産」の象徴のように思えた。
◀️ 2007年 礼拝説教
山北宣久氏(日本基督教団総会議長)への手紙(2007.11.5)
(第3版)“教師退任勧告決議”批判と克服をめぐって
−「法」のキリスト教から「生死」のキリスト教へ(2007.11.20)
◀️ ⑧「信がすでに来たった今」
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