山北氏への手紙(2007 北村牧師支援・書簡)

2007.11.5 執筆、11.6 投函

(明治学院教会牧師、74歳)

山北宣久様

 前略 10月22-23日の常議員会にて「北村慈郎牧師に対して教師退任を勧告する件」が上程、可決されたことを知りました。この事を憂慮する一人の教団教師としてお手紙を差し上げる事にいたしました。

 三つの点について、憂慮を申し上げます。

第一は、貴氏の論理の自己完結性を憂います。

 この議案の提案理由のなかで「教団が信仰上の組織として教憲教規によって立つ教会」であり、「教団が教会として成立する枠組みとしての教憲教規を逸脱する自由が教団の教会・教職にあるということを認めるわけにはいきません」と述べ「聖餐に関する問題は規則で云々するべき事柄ではない」という主張をも退け「信仰共同体としての教会は教憲教規によって具体的姿を現しているものです」と主張されていますから、「教師退任勧告」は「教憲教規違反」という一点に絞られています。この論理構成はそれなりに一貫して完結性を持っています。

 私は、その完結性が自己完結性となっていることに危惧を覚えます。それを比喩で語るとすれば、新約聖書の使徒言行録やガラテヤの信徒への手紙に表れているユダヤ律法主義者及び回心前のパウロが、ヘレニストキリスト者のステパノ一派への迫害を行った論理に似ています。

 割礼の相対化は絶対に許せないという律法の延長上に「神」を見る論理です。パウロはそれに荷担しましたが、回心後には「十字架につけられしままなるキリスト」(文語、ガラテヤ3章1節)に「神理解」を変化させます。そのパウロが自分の過去を振り返りつつ律法主義に対して「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は、皆呪われている」(3章10節)と述べ、律法の自己完結的な適用では救済(解決)に至らない事を説いています。

 それになぞらえて言えば、日本基督教団の問題を信仰上の問題に至るまで「教憲教規によって具体的姿を現している」との理解の仕方は「呪われている」とまで言わないとしても、自己完結に過ぎる論理です。

「信仰共同体としての教会」が「教憲教規」で具現化しているというのであれば、教団という信仰共同体の問題解決を「すべての事を絶えず守らないと」論理的に破綻します。しかし実際は、日本における福音主義諸教会の「宗教団体法」による統合という歴史的事実があり、その歴史的経過の中で「教憲教規」が作られて来たので、「教憲教規」はそれ自身歴史的産物であり、沢山の諸矛盾を内包し、改正・変更の可能性を法として含み持っているものであります。

 それを「信仰上の問題」に至るまで法として秩序の維持に機能させようとすれば、論理の自己完結が貫かれているようで、信仰上複数の見解を一切裁かねばならない事になり、そんなことは不可能と言わざるをえません。このような論理は、それを支える教団政治的基盤が多数である事を前提にしているからこそ力を持ち、あたかも「教憲教規」が「教会的真理」であるかのごとき体をなしていますが、真理を「十字架につけられしままなるキリスト」の逆説に依拠する福音主義教会の実態を形骸化させるばかりです。少なくとも「福音主義諸教会」による合同教会を教憲でうたっている教団(神学的多様性を課題として抱えている)を律法主義的誤謬に陥らせないためにも、貴氏の論理構成を憂います。

第二は、「議長」の発議を憂います。

 議長は教団では総会議長であり、会議のモデレーターであります。もし発議があるにしても、それは会犠制にのっとり、担当の委員会あるいは、教団の機能を分与して持っている教区の手続きを経て初めてなされる事であり、議長の常議員会への直接の発議はどう考えても無謀であります。議長がどうしても信念として、一教師の言動や振る舞いが許せないと言うのであれば、まずは「議長所感」「見解」「声明」といった形で、問題への喚起を促す事は出来ます。

「未受洗者の陪餐」は北村教師一人の問題ではありません。教団の所属する教会のなかには、紅葉坂教会と同じ見解を実施している教会はかなり(複数)あります。「勧告決議」という形ではのこの問題は混乱するばかりで、決して前向きに教会的進展を望むことは出来ないと危惧します。宣教論・教会論を含めて聖餐論は当然、神学的論議が自由に、開かれた形でなされるためにモデレーター(仲裁者・調停者)として努力するのが議長の職務です。貴氏がその努力を全く払わず、信仰共同体としての「教会(教団)」の守護者のように振る舞われる事に対しては憤りを禁じえません。

第三は、「教師」の召命への軽視を憂います。

「私を母の胎内にあるときから選び分かち」(ガラテヤ 2章15節)はパウロがエレミヤなど預言者に倣って言った言葉です。一人の教師の誕生にもそのことは言えます。一人の教師の現在は、教会の祈り、本人の決断や学びなど幾重にも重なる「神の導き」としか表現できない出来事の連鎖によって成り立っています。「教会」が立て、そこで養いを受けた教師に対する敬意というものを微塵も感じさせないのが、このたびの決議です。

 聖餐論の差異がかつて歴史の中で複数の立場の教会を生み出して来ましたが、教団はそのような聖餐論論争を経て生まれた教会ではありません。複数の聖餐論を抱え持つ教会の可能性を積極的・創造的に生み出す契機を宿すのが合同教会としての教団です。諸教師の諸召命はその可能性を包含しています。このたびの決議は、その教師を支えている各個教会の尊厳に対する敬意を欠いています。

 教団成立時、その構成教会の一つであった「会衆派」の教会は、各個教会に信仰理解の自由をゆだねて来た教会です。教団は教憲教規で締めくくりはしましたが、いまだその締めくくりの無理を解決すべき課題として持っていますし、教会観の違いなどを諸伝統の自由にゆだねるべき事象を幾つも持っています。それを多様性の共存の方向へと生かしてゆくのが、各個の教会と個々の教師に対する敬意です。

 これは無秩序ではありません。法で締めくくれない事柄を、相互の信頼と対話に基づいて解決するのが教会的共同性への可能性です。その中に聖餐論の違いを含めるべきです。聖餐論の現状を教憲教規から一面的に裁断して、その事を理由に一人の教師に対して「日本基督教団という教会においてではなく、独自の教会を建てられるべきであります」という無謀な発言が出来る権限をだれが貴氏に与えたと言うのでしょうか。「神からの召命」とでも言うのでしょうか。また、複数の信仰理解に関わる事項は常議員会にはなじまない決議です。「教団を糺す」ことが、貴氏の召命に基づくというのであれば、それとは異なった召命を含んで成り立つのが、教会特に教団であることにお気付きいただだきたいと思います。

 使徒信条には「我は聖なる公同の教会を信じます」という条項があります。これが現代的意味を持つとすれば、それが正統主義の異端を切り捨てる論理として作用した歴史を反省し、自己正当化の論理としてではなく、自己相対化の論理として作用させる事に意味があります。そのような信仰理解に立って私はこの条項への信仰を抱いています。

 教会は複数の形の召命を含んでいることで地上の歴史を歩むことが許され、またそこで対話や信頼の豊かさの可能性が与えられているものと信じます。北村牧師(紅葉坂教会に招聘されているゆえに教師が「牧師」としての役目を果たしている)への牧会の現実的労苦へのいささかの思いやりをも持たない貴氏の「牧師」としてのありように悲しい憂慮を持ちます。北村牧師はわたしの親しい友人です。自分の事として一筆したためずにはおれません。お手紙という形で、貴氏への憂慮を表明します。

2007年11月5日

岩井健作

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