2007.11.4、永眠者記念礼拝、明治学院教会(93)、降誕前 ⑧
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
ヨハネの黙示録 21:1-4
”わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。その時、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。”(ヨハネの黙示録 21:1-4、新共同訳)
1.新約聖書には、ご存知のように「新しい」という言葉が二つある。
”ネオス”と”カイノス”。
”ネオス”は英語の”ニュー”の語源。年代的な新しさ、繰り返す新しさ。
”カイノス”は英語の”フレッシュ”、「創造の新鮮さ」を意味する。
以下は”カイノス”の世界。
”見よ、わたしは新しい天と地を創造する。”(イザヤ 65:17、新共同訳)
”わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。”(ヨハネの黙示録 21:1、新共同訳)
ヨハネ黙示録の著者は、迫害に晒されている者が「なお神の約束を信じ」て、「新鮮に生きる希望」を描いた。
”神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。”(黙示録 21:3-4)
旧約ではこの「神の民」は選民イスラエルを意味した(エゼキエル 37:27)が、黙示録では複数形で「諸民族」の意味であり、諸国一般に開かれているのが「新しい天と新しい地」である。
2.一つのエピソード。
神学者カール•バルトがある(自己中心的な)婦人から質問を受けた。
「天国で愛する人に再会するというのは確かか?」
「確かです。だが、他の人々(会いたくない人)とも再会します」
そう彼は答え、天国にまで潜むエゴイズムを暴露した。
3.大林浩氏(在アメリカの宗教哲学者)は次のように語る。
「人間の本質は……個別存在ではない。人間の人格は、関係によって構成される。人の一生の間の多くの出会いの集積総体が人格である。人格は孤立していない。キリスト者の人格は教会という生命体の交わりを基盤として成立する。現世の人間関係は、愛することが親密であればあるほどその外側に親密でない人を置き去りにする。そのような地上の交わりを、死者を通して浄化していくのが「聖徒の交わり」だ。(講演「いのちの希望」大林浩)
キリスト教的人間観は「死後生」を視野に入れて初めて成り立つ。
死者の果たす積極的役割は、生者が死者を記憶してゆくだけではない。
死者が生者を支えていくという相互媒介がある。
死は終わりではなく、新しい人格関係の始まりだ、と述べる。
4.沢崎堅造(1907-1945、享年38)。京大助手。
日本の中国侵略に罪責を感じ、その償いをなすべく伝道者となる。
蒙古を伝道中、生後十ヶ月の次男・新君の死を経験、詩を残す。
…愚かな父を励ますために
この子は死をもって
再び帰ることなきよう
我が脚に釘打てり
その子の死はその後の父の生涯を決定づけた。
5.第二コリントに次のパウロの言葉がある。
”いつもイエスの死をこの身に負っている。それはまたイエスの命がこの身に現れるためである。”(Ⅱコリントの信徒への手紙 4:10、新共同訳)
「負う」は運び廻る、持ち廻る、の意味。
死者と語らい、死者との関係の集積を深めることが「聖徒の交わり」。
それはやがて古びる関係ではなく、”カイノスの”(新しい)関係である。
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