”霊”を受ける(2007 礼拝説教・ガラテヤ⑥)

2007.10.14、明治学院教会(90)、聖霊降臨節 ㉑

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 3:1-14

1.二つ句を覚えたい。

(1)ガラテヤ 3:1節の「十字架につけられた姿」

”目の前に、イエス•キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。”(ガラテヤ 3:1、新共同訳)

(2)8節の「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」

”聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。”(ガラテヤ 3:8、新共同訳)

2.《神様に叱られた》とよく語っていた、今は亡き信徒の方(小中学校の校長をされた教育者)を思い出す。

 自分本位の反省として「十字架につけられた姿」の句への注視を怠らなかった方。

 他者との関係が切れる生き方を、前章でパウロは「律法と福音」の対比として峻別した。

「十字架につけられたままのイエスに神の姿を見出す生き方」は、絶望的で弱く、孤独でありながら「逆説的に神と共なる慰めと勇気が与えられる生き方」。

「関係的生き方」の「啓示」。

3.「崩折れ」は他人の責任ではない、とペトロへの批判に続けて「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(ガラテヤ 3:1)と叱責する。

「”霊”を受けた」(3:2)と「肉によって仕上げようとする」(3:3、自己完結的で閉ざされた”肉”)との対比で、「福音と律法」の峻別を再現する。

”聞く”は開かれている(「福音を聞いて信じた」3:2)。「聞いて信じる」ことから出発したはずも、彼らはなぜ転落したのか。それは「聞いて信じる」「信を聞く」(田川建三)「信仰の説教」(佐竹明)という関係的あり方の弱さを意味している。

 告知への注視、集中度の問題。

「イエス・キリストが十字架につけられた(ままの)姿ではっきりと示された」(3:1)は、私たちの「従おう」という決断以前に神の出来事の優先を示す。

「十字架」が先立つ。

「示された」(告知)で、事態が変わっている。13節には「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました」という”贖い”という概念を用いて、「律法の行い」の終焉を告げている。

”キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。”(ガラテヤ 3:13、新共同訳)

4.後半はアブラハムの話。

 ユダヤ主義者のアブラハム理解は「律法を生きた立派な先祖、民族の誇り」それゆえに「異邦人とは違う」という”民族差別”へと展開する。

 パウロは「アブラハムは、人間的失敗や弱さ、自分の行き詰まりの中で繰り返し神を信じて義とされた」、「聞く存在」としてのアブラハムを強調する。

 その継承がアブラハムの子。

「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(創世記 12:3)を引用し、民族差別撤廃へと論理を進める。

「異邦人が等しく救いに与る」この根拠は「霊」を受けるという「開かれた関係」にあること。

5.作家の石牟礼道子さんは水俣病患者の人たちと「本願の会」で季刊誌の発行や小さい野仏づくりを営む。

 この国の近代化のゆえの「公害の原点」という罪を見つめ、失われた命と魂の繋がりを蘇らせたいとの祈りを持つ。

 水俣湾の埋め立て地に魂石(たましいいし)がある。

 石牟礼さんの壮絶な句が彫られている。

 ”祈るべき天とおもえど天の病む

 自明の神ではなく、十字架の壮絶な姿に「病む天」が重なる。


▶️ 祈るべき天とおもえど天の病む(2007 断片)



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