共に苦しむ父の譬え(2007 聖書の集い)

2007.10.24「福音書の中のイエスの譬え話」第4回 
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

明治学院教会牧師、健作さん74歳

ルカ福音書 15章11節−32節

「また、イエスは言われた。“ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』”……(彼は)放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。……『わたしは飢えて死にそうだ……罪を犯しました……息子と呼ばれる資格はありません。』。……ところがまだ遠く離れているのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。……」

(予告文)この譬えは、余りにも有名です。オランダの画家レンブラントはこの放蕩息子が父に迎えられた抱擁の瞬間を描きました。普通「放蕩息子」の譬として知られています。でもこの話は悪者が回心して、神の忠実な僕になったという美談なのでしょうか。そうではありません。イエスの意図は何であったかを探り求めたいと思います。ここにも「神的なもの」が人間的・此岸的・地上的なものによって示された譬があります。

1.今日は「共に苦しむ父の譬え」を取り上げます。

 これはルカ福音書の15章11−32節の話です。

 この譬えは、余りにも有名です。オランダの画家レンブラントはこの放蕩息子が父に迎えられた抱擁の瞬間を描いた。一般的に『放蕩息子』の表題がついているが、正しいだろうか。そこを考え直したい。

2.譬というものの意味。「非日常的・神話的なものが日常的・人間的なものとして、彼岸的なものが此岸的なものとして現れる」(ブルトマン)。

 イエスは譬で神的なものを一人の父の物語で表した。

 このお話には神と罪人との間に立つ救済者(仲介者、仲保者)の役割が描かれていない、と多くの研究者が論じてきた。これは正しい。

 父と二人の息子だけ。

 イエスの意図は、神の支配、神の国を人間的な言葉で告げ知らせ、これを実現させることであった。直接には語り得ないもの、別な次元の事を「聞くもの」に伝達しようとする。これができる語り方は、比喩、隠喩、譬である。これがあらゆる感覚を開く。実際の生活層で語られる物語に心を通わせながら、実は此のお話の次元を常に越える「神の愛」の経験へと導きを促す。

 譬は、救いの過程を教理的に述べ、それを永久に保持させるようなものではない。人間の地平の物語であるが、その中で神ご自身が生き、わたしたちを支配し給う事態を呼び覚ます。神の秘密を表すイメージが浮かび上がってくる。イエスが自分の使信と自分自身を同化させているところに「イエスの譬え」の意味がある。

3.父親で始まり父親で終わる。登場人物はただ一人父親である。「父の物語」。

「二人の息子がいた」(神は異なる息子をもつ)

「財産を分けてください」(息子は父を自分の人生から遠ざけ、父を殺してしまっている事実にたいして、全権のある父は直接的実効性のある方法でどのようにでも振る舞えた筈である、しかし、その方法に無力であることを宣言する。愛すること[人格の主体として関わる]以外の方法を放棄する決心がそこにはある)

「遠い国へ」(愛とは別の次元へ)

「飢饉が起こった」(息子の責任ではない、世界の現実)

「豚の世話」(最もひどい扱い)

「彼は我に返って」(パンのない現実、父親のパンを求めて、帰還の口上を考える)

「遠く離れているのに……父親は息子を見つけて……憐れ(スプランクニゾマイ)に思い、走り寄って首を抱き」(父の心はずーっと息子と共にあった)

「『……もう息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父親は僕達に……」(息子の口上を言わせようとしないで、祝宴へと連れてゆく)

「(兄は)家に入ろうともしなかった」(兄はすでにあるがままの父を「殺して」しまっている。彼は父のこうあるべき理想像を自分のために作りあげてしまっていた)

「いつも一緒にいる、わたしのものは全部お前のものだ」(父親の愛の事実の確認が促される)

4.これを物語るのがイエスでなければただおとぎ話に過ぎない。

 譬の中の想像のつかないほどの愛は、イエスの生涯と振る舞いとして十字架の出来事を結果として示す事になって初めて「愛」の使信となっている。

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