昔々約束があった(2007 礼拝説教・ガラテヤ⑦)

2007.10.21、明治学院教会(91)、聖霊降臨節 ㉒

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)

ガラテヤの信徒への手紙 3:15-22

1.前の箇所「”霊”を受ける」のおさらいをしておきます。

 3章1節-5節は、神がイエス・キリストにおいて、自らを(しかも十字架につけられたままの姿で)示された、ということ。

 事柄は「霊を受ける」「福音を聞いて信じる」という言葉で言い換えられます。

 6節-14節で、旧約の背景からアブラハム理解を手がかりに「異邦人は皆祝福される」(割礼のないギリシア人キリスト者が教会の食事の席で差別をされてはならない)根拠を論じています。

 大きくは「福音(信仰)と律法」の問題です。

2.今日の箇所では「約束と律法」(15-18節)、「律法の機能」(19-22節)について論じられています。

 パウロは律法よりも「神の約束」こそが大切なのだと強調します。

 なぜならモーセにに神が律法を与えられるよりも遡ること430年も以前に、まだ割礼も受けていないアブラハムに「神の恵みの約束」が与えられたのだからと。

 しかも、しれは紛れもない一人の「子孫」キリスト・イエスにおいて成就するのだと、約束の律法に対する優位、そして律法の救済史上の機能が論じられます。

3.聖書本文を読んでいて、ちょっと思い出した話があります。

 瀬戸内海の豊(て)島という大変美しい島のお話です。

 自然をあるがままに保ち、調和して生きることは、そこに生活する人々の不文律(約束)でありました。

 ところが、いつの時にか、その島の広い海岸にどこからかゴミの投棄が行われ、厳しい法律で取り締まりをしますが、解決しません。

 生命の危険にさらされた住民は、大変な苦難を負って解決に乗り出します。

 苦難を負うリーダーに寄り添い、一人の弁護士が島の外から来て尽力します。やがて解決の目途が立ち、オリーブの木が植えられ、綺麗な自然が戻ってきます。

 創造の秩序(約束)は法律に優位します。

4.パウロが今まで述べてきたことは「律法による生き方では救いには至らない」ということでした。

 現代の言葉で言えば、自己実現・自己充足・自分本位の生き方においては「救い」はない、ということなのです。

 たとえ「神の大義名分(律法)」があるとしても、それが「共に」という開かれた生き方を生み出さない限りは。

 そして、その「共に生きる」という生き方は「福音によって」「信仰によって」提示されるのですが、それは、「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに」(文語訳)を忘れてはならないということでした。

 この事実が、世界のあり方を変えていくのであって、律法が事態を変えるのではないのです。

 律法は主体を連帯にまで繋がないのです。現代でも同じことです。

 法律以前の倫理、人情・助け合い、そこでの犠牲の細部に、神は宿ります。


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