祈るべき天とおもえど天の病む(2007 断片)

2007.10.18、掲載誌不明 (明治学院教会牧師 健作さん 74歳)

 ガラテヤの信徒への手紙の講解説教を始めた。田川訳に触発されてのことである。

 パウロは「律法による生」からの脱却を論じる。これを現代の文脈に移し替えて、自己完結、自己充足、自分本位からの解放と解釈すれば、それは「近代主義」の克服の課題と重なる。3章冒頭でパウロはこの転機を「信(神がキリストを通じて信を示してくださった)について聞いたから」に根拠付け、その信は「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(文語訳)の出来事そのものだという。

 この「ままなるイエス」は青野太潮氏が一貫して主張するところである。私は、ふと石牟礼道子氏の句を連想した。水俣湾の苦海・埋立地の魂石に刻まれているという。

祈るべき天とおもえど天の病む

 祈るべき、その天が病む。「ままなるイエス」への思いと重なった。

 先般ある幼稚園で母の会のおはなしを終えたら「これ、父の論文が載っていますから」と母親の一人から『水俣学講義』(熊本学園大学付属社会福祉研究所編 2004)を頂戴した。早速所載の宮沢信雄氏の「水俣病患者の闘い − 公害と差別」を読んだ。熊本赴任から始まるNHKを退職した後フリーのアナウンサーをされている。この人も生涯を「病む天」を注視して「水俣と共に生きている人だ」と思った。

「ままなるイエス」に投影された現代の底知れない無残な幾重もの死をどれだけ注視するのか。それは我々の生の軽重を問うている。