盛大な晩餐の譬え(2007 聖書の集い)

2007.11.14 「福音書の中のイエスの譬え話」第5回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

ルカ福音書 14章15節−24節 「大宴会」のたとえ 新共同訳(並行箇所マタイ22:1-10)

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

1.「譬え」は、一元的に一つの意味があってそのことを言い表すために用いるというものではない。譬えの素材は、生活、経験、そのものとして意味を持つ。

 幼児が「このお花きれいね」と言う時、「きれいだ」という感性が大事だ。

2.「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き……」(マタイ 22:16)

 この背景にあるのは「宴会の喜び」さらには「一緒に食事をする喜び」の生活や経験である。イエスの物語には、イエスを囲んで一緒に食事をする話がたくさん出てくる。

 5千人に食物を与える話(ルカ 9:10-17)、レビの家で食事をする(マルコ 2:15)等、祝宴そのものが「神の国」の象徴となっている。

3.招待を断った富裕な人々が問題にされているが、一般化された表現は富んでいる人に対する鋭い攻撃を含んでいる。なぜか。自分の都合を第一として生きている。共に会する食事の喜びを第一にはしていない。

4.イスラエルの歴史の背景をイエスは視野に入れていたと思われる。イスラエルの指導者たちは「神の招き」の働きを拒否してきた(マタイ 5:10-12)。

5.ルカは14章11節「高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」に続けて、12-14節の「宴会への招き」を「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」と記し、更に21節でこれらの人々の招きを再録する。イエスは貧しい者に福音を述べ伝え、そのことをイエスの批判者にも語られた。あなた方は神の国の招待を拒否した者と同じだと。

6.マタイは「王による王子のための婚礼の話」に拡大し、旧約時代の預言者の迫害から使徒たちの殉教、最後の審判という救済史の枠を持たせている。ルカも「町」はイスラエル、譬えは「異邦人への召し」を象徴し、寓喩的な意味を持たせている。

7.この譬えでは、前もって正式に招いておいた社会的に地位のある人たちが、いざ宴会の準備ができた時、何やかや理由をつけて断った。そこで急遽、道端の貧しい人、さまざまな障害者が招かれた。「救い」には逆説が伴っている。貧しい者の存在が、神の国の意味を担っている。

前後の集会
2007年

*11月4日 夜、紅葉坂教会「かながわ明日の教団を考える会」
テーマ「常議員会での『北村慈郎牧師への教団教師退任勧告決議可決』について」(発題・岩井健作)

*11月7日 鎌倉平和都市宣言50周年を祝う会準備会

*11月9日  同志社神奈川の集い

*11月10日 「子どものためのオルガンコンサート」