沖縄に旅して(1993 神戸教會々報)

神戸教會々報 No.139 所収、1993.7.18

(健作さん59歳、牧会36年目、神戸教会牧師16年目)

御国がきますように  マタイ 6:10


 6月23日、私は沖縄島の南端、魂魄の塔の前に立っていました。

糸満市 魂魄の塔

 3万余人の遺骨を葬ったという土盛りのままの墓前に訪れる遺族がたむけた花の束そして供物が、梅雨明けの南国の太陽に悲しく並び、頭をたれる人の群が続いています。

 天皇制国家体制の存続のため、「昭和天皇」自らの言葉によって終りなき地上戦へと持ち込まれた沖縄戦の犠牲者の関係者たちです。

 傷が癒えぬままの48年後、この塔の背後の丘は、木が切られ公園化され、天皇の植えた「植樹祭」の白木の柵の中の樹が、盾を持った機動隊員に守られているのを見て、墓に手を合わせる人たちの心中を思いました。

「本土」から来た自分たちが、民族を共にしながらも歴史を異にする沖縄の人たちの疎外感、被抑圧感の対極につながる者でしかあり得ないとの思いを一層深くした一瞬でした。

糸満市 平和祈念公園「平和の礎」

 このたびの旅は、一つの会合出席のためでした。「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同問題協議会」という長い名の会合です。22年ぶりの会合だとのことです。

 1969年、日本基督教団と沖縄キリスト教団とは教会合同をいたしました。しかし後で考えると、その合同は、日本の国家が17世紀以来、琉球王国を侵略し同化・支配・抑圧・差別してきたのと同じような「大が小を呑み込む」質を持ってしまった合同だ、と気づくところとなりました。

 1978年以来、何故そういうことになったのか、「とらえなおし」の作業が始まりました。この春まで10年間、それを行う教団の委員会の責任者を私は務めました。

 その総括的な役目なのでしょうか、このたびの会合で中心となる二つの発題講演の「本土」側の役目を負いました。「日本基督教団の歴史の中での合同」という題を与えられて、少々苦労してその責を果たしました。

 発題の要点だけ記しますと、
(1)日本基督教団は1941年に日本のプロテスタント諸派が合同して出来た教派であるが、その合同は宗教団体法の成立という国家の圧力による合同だったということを、正直に認めよう、ということ。

(2)1967年に鈴木正久教団議長は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を行なったが、その意義を認めよう、ということ。(1)も(2)も認めない人がいるのでこのことははっきり申しました。

(3)戦責告白をしたらそれが終わりだと考えない方がよい、ということ。宗教者は元すると宗教的理念(神学、教理)から現実をみて、ありのままのこの世の戦争や差別の苦悩からものを考えないことがあるので、「告白」というものの歴史の中での限定された役割に目をとめよう、ということ。そこから考えると、1962年制定の「社会活動基本方針」(社会倫理規定)は再検討された方がよい、ということ。

(4)聖書を読む場合、聖書の各文書の成立あるいは伝承・編集の意図を飛びこえて、一つのまとまった教義を例証するもののように読む読み方をすると、いま現に自分が足をつけている現実の問題がどこか宙に浮いてしまうのではないか、ということ。

(5)こういうことを地味にやらないと、苦しさに満ちた沖縄の固有の歴史がつきつけているものが「本土」の教会に響いてこないのではないか、ということ。つまり「本土」教会の体質は変わらないのではないか。

(6)「本土」の教会が十字架の死に極まるイエスによって示された神の逆説的福音に立って形成されるということは、国家が沖縄に与えた苦しみの質に問われつつ、そこにこだわり続けることを通してこそなされるものだ、ということ。難しいことではありますが、こんなことをお話ししました。

 印象に残ったことは、宮古島の伝道所の信徒・平良新亮さんの、国境というものが人間を翻弄するというお話です。そういえばイエスも大国の境界線を生きました。会場を提供された沖縄キリスト教短大の行き届いた好意が身に沁みました。

糸満市の平和祈念公園「平和の礎」

 発題講演を聴くために、といって読谷教会の儀間良子さんがわざわざ来場。同姉は1986年来神(『近代日本と神戸教会』p.201参照)以来、私たちの教会の西田縫さんともずっと交わりを続けておられます。かつて儀間さんを通して沖縄戦の闇の部分をお聞きしましたが、ふと考えると沖縄で出逢う年輩の方たちは、「本土」が強いたと言えるその地獄を皆心に秘めておられるのだ、という思いが脳裏をかすめました。

 会合の最初に「琉球・沖縄史をどう理解するか」を切々と説かれた新崎盛暉(あらさきもりてる)氏(沖縄大教授)は、近著『脱北入南の思想を』(凱風社 1993)の中で、主権国家の枠組みにとらわれない視点を沖縄から発信しておられます。今回も、「民族を共にしつつ、歴史を異にする沖縄」(谷川健一氏)、この言葉の重さをかみしめつつ、帰路につきました。


(サイト記)冒頭の画像は、糸満市の平和祈念公園「平和の火」です。「平和の火・礎」の除幕は、本文の旅より後の1995年です。本文の旅で健作さんが訪れたのは「魂魄の塔」で沖縄最古の慰霊塔。「平和の礎」に刻銘された沖縄戦の戦没者数は現在24万名を超えている。

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