死に向かい合う ー 夏期特別集会からまた新しく(1993 週報)

1993.7.25 神戸教会主日礼拝 週報 No.32 所収

(神戸教会牧師16年目、牧会36年目、健作さん59歳)

詩編 30:6-12、ローマ 6:8-9

 今年の夏期特別集会には、日本基督教団の6つの関係神学校のうちの一つ、農村伝道神学校(「農伝」と略)の専任教師(8月から校長)高橋敬基(よしもと)氏をお招きでき、数々の学びと示唆を与えられたことを感謝したいと存じます。

 私は、私なりに3つのことを教えられました。

 一つは、言うまでもなく「パウロの社会史的理解」ということです。これについては「 神戸教會々報」(No.139)に藤村洋さんがよくまとめておられますのでご覧ください。

 第二は、「言葉から現実(状況・歴史・経験)へ、現実から言葉へ」という信仰生活の相関関係です。1970年代以来、キリスト教界の中に、パウロ主義批判というものが起こり、パウロ研究者の一人である高橋氏も批判されたそうですが、それは信仰の言葉がしばしば歴史の重みや現実の社会的連関を観念的、精神的に越えてしまい、パウロはそうした観念的逆立ちの元凶のようだ、というものでした。プロテスタントの教会、特にカルヴァンの宗教改革の流れを汲みピューリタンの伝統に立つ諸教派は、説教を重視しますから、いわば「言葉の宗教」です。特にその教義の根本を「聖書のみ」「信仰義認論」に置いていますが、「信仰義認論」はパウロが展開したものです(高橋氏は、それは社会史的に見れば「誰と一緒に食事をするか」【前週週報、及び説教参照】という問題とされます)。

 言葉で「神の真実」を伝える営み(説教・証し・聖書研究など)は、諸刃の剣のようで、現実と観念の逆立ちを起こさせる危険を含んでいます。しかし、言語活動(重度知恵遅れの人の心の表現や、沈黙・黙想という逆説的営みを含めて)は人と人との関係、つまり人間存在に不可欠です。この相克と矛盾にパウロもまた生きたのだということを、高橋氏はロマ書8章までとそれに続く9章の冒頭の言葉

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者になってもよいとさえ思っています」(ロマ 9章3節・新共同訳)

 で示されました。あとで、私はどういうわけか小学生の時、授業で学んだ「稲むらの火」「杜子春」「修行者と羅刹(らせつ)」というようなお話を思い浮かべました。

「キリストと共に死んだなら」(ロマ 6:8)もそのような逆説的あり方が私たちに促されているのであると思います。

 第三は、高橋氏は農伝の教師だということから学びました。「農」は日本の近代化では、死滅に追いやられている立場です。その問題を負いながら、神の福音を言葉で伝えるところで、卒業生は活きている。それは希望だ、と新幹線乗車の前に語られたことが忘れられません。

(岩井記)

(サイト記)

 この日の説教原稿はB5用紙に13ページ。健作さんに負担をかけずに、画像アップのご承諾をいただくことが、どうすれば出来るのか、検討を続けます。直筆原稿については、未発表のコンテンツなので、取り扱いは慎重すぎるくらいに、と思っています。

この礼拝の牧会祈祷

前週の夏季特別集会「説教要旨」