教会の裏方(2010 礼拝説教)

2010.5.16、明治学院教会 礼拝(191)

(明治学院教会牧師 76歳)

コロサイの信徒への手紙 2:1-5

コロサイの信徒への手紙 2:1-5、新共同訳
 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体で離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

1.著者は一つの苦労を述懐している(コロサイ 2:1)

 この教会には「知恵や知識」をかざす人々がいたようでる。これに対して「智恵と知識の宝は、キリストの内に隠れています」(2:3)と対抗する。

 その意味が通じないことが著者の労苦(この語はルカ22:44の「イエスは苦しみもだえ」の派生語)でもある。共に苦しむ労苦は、開かれた関係にあるから、それは喜びに変わり得る。しかし、共有の断絶した彼は「どれほど労苦して闘っているか分かってほしい」(2:1)と切に訴える。

2.これは現代的問題でもある。

 分かったつもりの知識が、ほんとうはそうではないといった深刻な問題なのでる。青木道代さん(障碍を負う人々・子ども達と『共に歩む』ネットワーク)は、ボランティア(力関係が滲む)をパートナーシップと言い換えて実践をしているという。「知識」の閉塞を破る苦労がそこにはある。

3.キリストの内に

「キリストの内に」(2:3)は、イエスが他者と共に存在していること、十字架の死をとおして逆説的に開かれた関係にあることを表わしている。「隠れている」が「知恵と知識」を誇る彼らの破れなき知識の完結性を批判している。コロサイの信徒への手紙は(パウロ後であって、真性のパウロの手紙ではない)地上において「神の出来事・福音」が、真底教会の課題だとの主張をする。「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1:24)がこの書簡の通奏低音にある。

4.コロサイの教会は、今危機にある。

「あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」(2:4)。自分が主体で表現していると、気が付かないうちに「傲慢」が忍びよる。「キリストの内に隠されている知恵」はその「傲慢」を取り除くのだ。

「『神』は常に、認識過程の主体であり、我々が所有し、自らの掌中に収めることができる、単なる対象に成り下がることは決してないから、我々がただ自らを献げることができるような認識が存在するということである。」(注解書、シュヴァイツァー)。

 つまり、教会では、客観的に物事を認識するということは、有り得ない。客観的という、その主体の置き所が問題とされる。

「自らを繰り返し、対話の相手である神と関わる用意をしていない者、あるいは独力で、自己から考えようとする者は、思考のすべての出発点がすでに逆転している」(前掲書)。

5.教会とは何か。

 価値観の闘いの場所だと言える。自分の中の、聖(開かれた関係)と俗(閉ざされた関係)が洗い出されて、その両者の闘いの場に自分がさらされるところである。

 イエスに従うことは、自分中心の価値観・自己実現の価値観と決別すること、教会はそれを中心的に負っていく場所だという自覚が、パウロにはあったが、それを特に教会というものの役目として捉えているのがコロサイ書である。

「自分を捨て、自分の十字架を負って、われに従え」(マルコ 8:34)

 教会の裏方は、今もなお「十字架につけら給ひしままなるイエス・キリスト」(ガラテヤ3:1)にあるのではないか。

 裏方を注視して歩みたい。そして裏方をいとわないで生きたい。表舞台だけに光があたる在り方を批判して生きたい。

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