聖霊を悲しませるな

聖霊を悲しませるな

(113)「今日の説教、聴き手のために」於明治学院教会 2008.5.11

エフェソの信徒への手紙 4章25節-32節

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは聖霊により、贖いの日に対して保障をされているのです。

エフェソ 4章30節

1、「聖霊」あるいは「霊」という聖書の言葉にどんなイメージを持たれるであろうか。私は力強い、躍動のイメージを持つ。「霊」は旧約聖書のヘブル語では「ルーアッハ(息吹、ヨブ 27:3-4。命、風、気、勇気、霊)」。新約聖書のギリシャ語では「プネウマ(霊、風、ヨハネ3:8)」。

2、聖霊とは何かを学ぶ時、「信仰問答」をひもとくのは一つの知恵。「ハイデルベルグ教理問答」53 は「第ーに、聖霊が、父とみ子と共にひとしく永遠の神であること、第二に、聖霊がこの私にも与えられており、真実の信仰を通じて、私をしてキリストと、そのすべての恵みのみわざにあずからせてくださり、私を慰め、永遠に至るまで傍らにいてくださることであります」とある。聖書ではローマ8:26(執り成し)、ヨハネ14:16、16:7(弁護者)などは重要テキストである。

3、聖書の中で神の超越性を「父なる神」(フェミニスト神学の方は、この表現を批判する)、歴史を歩んだ「飼い葉おけ」から「十字架」に至る神を「子なる神イエス」と表現し、現在、個々人の内面に働きかけ、慰め、いやし、言葉(信仰告白)をカあらしめる関係の神を「聖霊」と表現する。これをうまくまとめた教理を「三位一体」という。これは「神」の「私」への関わり(恵み)の多面性と豊かさを表したものである。しかし、この教義を覚えて、その観念の中に安住すればそれが立派な信仰者という訳ではない。

4、聖霊をイメージする時、私は小学校4年の時の初めて親から離れての一人旅のことを思い出す。それは、幼く、恥ずかしく、未熟な自分を自覚する旅であった。しかし、行く先の、曾祖母の慈しみと、背後の母親の祈りの身近さに包まれた自分の位置を自覚した旅でもあった。めっぽう自由を感じた。
 また傍らにつきそう愛を感じるという、その構造の体験は大きかった。「聖霊を悲しませてはいけない」という言葉をエフェソの書簡で読んだ時、少年の日の体験が思い起こされる。

5、エフェソ4:25以下は、当時の教会が初心を失い、世俗にまみれた時、指導者が叱責を与えた言葉である。「偽りをすてよ」「盗みをはたらくな」……など。これは教会の中のことだ。現代的感覚で読んでも凄まじい(週刊誌がキリスト教の「セクハラ」を報道したことを連想する)。指導者は「聖霊により、贖いの日にたいして保障されている」者であるのに「聖霊を悲しませるな」と叱咤する。これが教会の現実だと思うと、語るにも次元の低い話である。しかし、見えざる神、悲しむ聖霊なる神がいますということは、慰め深いことであり、また「救い」である。