牧会の日常で洗礼と聖餐を考える(2008 出会い・震災)

(サイト記)本稿「T君」の父・藤村洋兄は、2020年1月9日、肺炎にて帰天。昨11日、神戸教会にて葬儀。別ページのテキストと写真掲載の許可を下さった感謝を込め本稿を捧げます。

2008.5.15、掲載誌不明

(明治学院教会牧師、74歳)

 T君は健康そのものであった。アウトドアスポーツの名手で、四万十川でカヌーを、と思っていたら、東京から神戸までを自転車で一気に走り切ったとの報がきた。

 旧「国鉄」の時刻表はほぼ頭脳に入っていて、駅名はもとより列車のすれ違いの時刻までも諳んじていた。大学工学部を出て、仕事は関西の私鉄の運行プログラムの作成と管理を数人のチームでやっていた。

 沖縄の旅で出会った娘さんと結婚をするといって親を驚かした。しかし、両親はともに成熟した二代目のキリスト者、日本の古い神戸のプロテスタント、日本基督教団の教会の堅実な担い手である。T君は子供のころの教会学校以来、多少疎遠になっていたとはいえ、その人格形成は教会を他にしてなかった。

「洗礼」の機はすぐ目の前にあった。牧師として一連の結婚の出来事でT君の内面に私は深く関わった。

 そのT君がそれから幾許かの年を経ずして、急性白血病を負った。彼は驚くべき冷静さでこの人生の試練に祈りを持って対処し、新婚の妻も両親も僕も、各々その役割を精一杯果たした。

病床洗礼というのもなんですから、良くなってから妻と一緒にあの会堂の礼拝の中で

 とは彼の方からの発言であった。キリスト教には全く未知の妻への思いやりが溢れていた。

 骨髄移植の可能性が出た。名古屋日赤に転院、希望に上向いた時、細心の注意を払っていた感染症が襲った。もう意識はなく「間際」だと電話が父親から神戸に飛んだ。

 咄嗟に教会役員である父親に、本人の心の底の思いを再度語り、「教会」の委託として「授洗」の役割を委嘱した。

「意思表示の出来ないままの洗礼はあの子にふさわしくない

 という判断で、彼の救いの確かさを信じつつ、地上での「洗礼」は見送られた。

「洗礼」は地上の「教会」にとって恵みの徴であり「救い」の伝達の手段であることは当然であろう。だが、それも地上の時の流れの中の営みである。

 果して、以下のように言い切れるだろうか。

「その重い心の人間を、生きることの重さから解き放ち、軽やかにする出来事がある。それが洗礼である。この生まれ変わりの洗礼によって、どんな人間にも再び生きる勇気が与えられる。洗礼による以外に、そのような根本的転機を作り出せるものはない。」(芳賀力「それが『聖餐の豊かさ』なのだろうか」『福音と世界』2008年 5月号所載)。

 神学論としてはこれで完結しているのであろう。

 だが、教会の牧会の現場の言葉として「受洗者」「未(非)受洗者」の狭間で「人間論」の地平での言葉として、この神学の論理を翻訳なしで通用させ、割り切るわけにはいかない。それを平気な感覚で語れるとすれば、何たる高慢との謗りを免れ得ないであろう。

 牧会の現場では「神学すること」は必要であっても「神学」概念はたえず歴史の文脈の中で、新たなる主体の発話として語り直されねばならない。この「発話」の感覚の欠如を、私は「芳賀論文」に対して問題にしたい。

 T君は「洗礼なしに」十分「命」を生き切った。

 親しい者と笑顔で人間の根源的関係性を温め、牧師のわたくしに励ましの手紙を書き、父親との間に意志的で冷静な対話をした。

1994年12月31日、最後まで希望を失わなかった戦いのすべては終わった」(『為ん方尽くれども希望を失わず』藤村洋編 p.197)。

 葬儀とその後の家族の牧会に関わった私にはすべてが恵みに満ちた出来事であった。「洗礼なしに」である。

 それから2週間経って(1995年1月17日)「阪神淡路大地震」を経験した。

 最初の聖餐式の時、私は、ある決断をもって、聖餐式の執行の形を変えた。

 地震の余波で礼拝に出られない会員が多かったが、Iさんは出席だった。キリスト教主義女学校を出て、以来何十年と礼拝に出席し続けている。

「洗礼」を受けない、また受けられない唯一の理由は、お連れ合いが、家の長男で仏教の家を守ることが役目で、夫人に「洗礼」だけは止まって欲しい、と願っていた。その連れ合いとの関係を大切にして生きることが、彼女には「信仰」の内容であった。社会人の子息は受洗して教会の青年会で活躍していた。御本人も教会の奉仕の役割、献金なども自発的に果たされていた。

 地震は地上の命の不条理を如実に示した。なぜ彼/彼女が死んで、私が生きているのか。その問いは、どのような意味付けも解釈も越えて残る。もちろん各自なりの宗教的、哲学的思索の上での納得の仕方はある。が、それを客観化すれば、「ドグマ」の押しつけになる。「洗礼」は一回的であり「聖餐」は繰り返される、とは神学的秩序としては意味を持っている。

 そのことを承知の上で、歴史の文脈では「洗礼」と「聖餐」との恵みの「互換性」が敢えて選択されてよい、という決断をした。

 なぜなら、地震は日常性と非日常性の逆転を体験させ、地上の命の峻別の不条理を経験させた。

 神学的秩序が匿名化される逆説を秘めて、今ここに礼拝を共にしている人への招きを伴った聖餐は恵みの現実性へと一歩を踏み出したと思っている。

 地震が契機となった問いがもたらした決断であった。

 それが地震後のIさんと共にしての礼拝の聖餐式であった。

 Iさんは「その招き」を慎み深く保留した。が、それはそれでよかった。

「教会」は「聖餐を恵みへの決断の時として受けたいとの願いを抱いている人」に開かれた聖餐を備えた。

 そうして幾許かの時を経て、彼女は受洗した。

 連れ合いの方の、急な心境の変化もあったという。

 突如とした「牧師」の決断を、幾多の論議の後、事後承認でそれを教会的決断にして戴いたことには感謝に耐えない。

「未(非)受洗者の陪餐」も「受洗者の陪餐」も基本的に本人の「恵みへの応答の意志」に委ねられる。

 地上の生においては「洗礼」が礼典として先行しなければ「救済」が実質を伴わないと、制度的保障を確保する考え方もあってよい。しかし、それに合わないものを「粛清」するのはよくない。

 牧会の現場で「神学する」ことは、様々な思考を生む。ある一つの思考の結果としての「神学」を現場に敷衍するだけが、地上の教会のあり方ではない。まして、歴史的な経緯で多様なものを含んでいる「日本基督教団」では、牧会の現場からの神学的思考の営みを許容する寛容さを失ってはならない。

 歴史の過程には、いくつもの「神学の思考形態」があること、そして唯一の「教義学」が力あるものによって幅をきかすことは、危険であることを自戒として思う最近である。

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