2004.12.23 掲載誌不明
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愛するものに死別するということは、凍てついた時間を抱え込むことです。
透さんの死は、ご両親ご姉妹の方々、ご家族の間では、そのように抱え込まれてこられたと存じます。
10年という歳月は、客観的には「ひと昔」という諺のように、時間の流れを刻んでいます。
しかし、喪失の痛みのうずきは、その流れる時を侵して鮮明に迫ってきます。よその人には忘却のヴェールにかすむことがあっても当事者にはそうではないのです。それが当事者性ということではないでしょうか。
そういう意味では、私も「牧師」という役割においてですが、透さんとは当事者であり続けています。
透さんとは3度出会いをしています。
一度は結婚を通して、二度目は病気を通して、三度目は死とそれからの命を通してです。
一度目の時は、結婚を巡っていろいろ言葉を交わし、結婚式をさせて戴きました。
透さんはカウンセリングの最中いつも快活でした。
学びの素材の一つに「妻をたたえる詩」という詩を用いました。
作者の難波紘一氏は、私の知人のクリスチャンの高校の教師で、36歳で進行性筋萎縮症を発病、6年間を信仰によって地上の証しと奉仕を全うして天に召されました。
妻・幸矢さんは、育ち盛りの男の子3人を抱え、死に向かう病人を抱え、滅入り、動揺し、打ちのめされました。
しかし、なおそこから立ち上がる妻をたたえる詩でした。
難波さんに最後に会った時、
”岩井先生、結婚のカウンセリングで、僕の詩を紹介して、夫婦は『病める時も』愛に満たされている恵みを受けていることを知らせて下さい。”
と遺言を語ってゆきました。
透さんはと言えば、元気そのもの、アウトドアスポーツの熟練者でした。
その彼が、私の知らない間に、難波さんの未亡人・幸矢さんに手紙を出して、その詩の載った本を取り寄せているのです。
透さんが病んでから、私が見舞いに行った時、「難波さんのようにはいきませんが、あの詩の心でやりたいと思います」と語っていたことを、私は大きな励ましで受け取りました。
透さんの入院中、なかなか見舞いに行けないので、特に名古屋に移ってからですが、よく葉書を書きました。
言葉と共にイメージが慰めになればと思い、彼が鉄道のプロであることを考え、関西の私鉄がいきいきと動く姿を写真に撮ったり、教会堂のディテールに幼き時代の時間を思い起こして貰えたら、と写真葉書を送りました。
「ご無理なさらないように」とは、彼の残した私への大人の労りの言葉でした。
以来、何か癖で、カメラこそ構えないのですが、よく電車の先頭に乗ります。
横須賀線、横浜線、東海道線、京浜急行、東横線、伊豆急、箱根登山鉄道。
向かってくる対向電車のその時々に異なる表情を見るのが好きです。
透さんの言葉がふと心をよぎります。
天上と地上ですが、出会いは凍てついた時間を、溶かしてくれます。
キリスト教の信仰で伝統的に「復活」という概念で表された出来事は、凍てついた時間を溶かしはじめてくれる根源を指し示しているのではないでしょうか。
「あの方は復活なさってここにはおられない」(マルコ16:6)
(サイト記)健作さんはこのテキストを藤村透氏が病死された1994年末の10年後に書いている。藤村透氏の亡くなった1994年末とは、阪神淡路大震災の直前である。入院療養中の藤村透氏に、毎日のように健作さんは電車の絵や写真をハガキで病室に届けていた。その経緯を透氏の父・藤村洋氏が著書に刻んでいる。