陰の労苦(2010 礼拝説教・コロサイ)

2010.4.25、明治学院教会(188)復活節 ④、労働聖日
◀️ (2001年版

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

コロサイの信徒への手紙 2:1-5

1.聖書は「綱引き」の書物である。「綱引き」の歴史が記されている。

 例えば「出エジプト記」。パロの強大な権力と神に導かれる「奴隷の民」が綱引きをする。

 預言書では、王国の権力者たちと「神の言葉」を預かる預言者たちとが激しく綱引きをする。

 その流れから見ると、規模は異なるが新約聖書の各書にも「綱引き」が記されている。

 福音書では、イエスとパリサイ派の律法学者、イエスと無理解な弟子たち、ヨハネ福音書では「光と闇」、そして初期教会の文書も「信仰の形骸化・固定化」への闘いが記されている。

 人の世の苦しみとは重ならない宗教的独善の救済の知識だけが問題になってしまった「自己完結した教義・教理」の塊のような「教会」が厳しく批判されている。

 いわば、民衆の幸いとは関係のない救いの「満足」だけを説く「教会」である。

 パウロはそんな救いを説く「律法主義者」に対して「信仰義認論」をもって闘った。

 ヤコブ書は、少し時代を経て、そのパウロの「信仰義認論」の絶対化・固定化に対して「行いの大切さ」をもって闘った。

 それぞれの状況での「綱引き」がある。

2.コロサイの信徒への手紙は、パウロより後の時代、彼の影響下にある「指導者」が初期教会で、教会での労苦を記した書簡である。

”わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かって欲しい。”(コロサイ 2:1、新共同訳)

 著者は、その労苦を4つにまとめている(コロサイ 2:2)。

 ①「人々が心を励まされる」こと
 ②「愛によって結び合わされる」こと
 ③「理解力を豊かに与えられる」こと
 ④「神の秘められた計画であるキリストを悟るようになる」こと

 これらは「教会の本来的働き」である。「巧みな議論にだまされないようにするため」(2:4)だという。コロサイ特有な霊力を説く異端に荒らされていたらしい。「指導者」の陰の労苦は絶えなかったのである。

3.ここの「”労苦”」という言葉は、ルカ22:44で「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」と「”祈り”」に関連して用いられている言葉と語源を同じくする。

 イエスの苦しみをよそに弟子たちは眠っていた。

4.「教会」という場も、奥深い所では、「神ご自身が」「イエスご自身が」隠れた労苦を重ねている所ではないか。

 その投影としての労苦は、また教会を構成している各人にも託されている。

 それは、いわば「聖と俗」「イエスに従うこと、自分本位や自己完結の救いに生きること」「仕えることと仕えられること」などの綱引きである。

 自分の内なる綱引きもあり、社会の価値観との綱引きもあり、色々である。

 教会には「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです(フィリピ 1:29)という表現の仕方がある。

5.「信徒の友」(2010年5月号)に日向福島教会の紹介がある。

 鈴木多聞さん(福島女学校体育教師)の(1921年以来の)労苦多い教会設立の草分けの働きが心を打つ。


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