陰の労苦《コロサイ 2:1-5》(2001 礼拝説教・週報)

2001.2.11、 神戸教会週報、降誕節第7主日
▶️ 2010年版

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

コロサイの信徒への手紙 2:1-5、説教題「陰の労苦」


 教会とは何か。

 価値観の闘いの場所だと思う。

 自分の中の、聖と俗が洗い出されて、その両者の闘いの場に自分がさらされているところだ。

 神との交わり(聖書、説教)、さらにはそれに基づく、人との交わりの中で、闘いとられていく。

 しかし、教会(宗教)の世俗というものがある。

 人の世の苦しみと重ならない独善的知識、「教義・教理」によって自己完結してしまうとすれば、それ自身は素晴らしくとも、逆説的には「世俗」である。

 イエスは、当時のパリサイ派を「白く塗られた墓」(マタイ 23:27)と形容して、似て非なるものへの痛烈な批判をした。

 世俗の闘いは常に分水嶺に立たされている。「世俗」に流れるか、世俗とは異なる側に流れるのか。

 自己完結化を塗り固めるのか、閉鎖的自己を砕かれ、彼方から差し込む光へと砕かれた魂が繋がるのか。

 このような聖と俗との闘いの場として教会は存在し続けてきた。


 コロサイの信徒への手紙は、パウロに影響された者が、パウロより後に書いた手紙である。地上において、神の出来事が、パウロよりもさらに教会の課題になっている。

 良くも悪くも、教会は、イエスにつき、福音につき語られる場である。

 その出来事が、教会という共同体そのものによって担われている。

 コロサイの著者は今日のところで次のように言う。

”わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、…どれほど苦労して戦っているか、分かってほしい。”(コロサイ 2:1、新共同訳)

 パウロがかつて、こういう苦悩の負い方を「使徒の務め」(ローマ 1:5)と言ったように、この指導者(著者)も具体的な労苦・困難などの経験の中に、教会に仕える者の使命を見出している。

 著者の”労苦は何のためか”といえば、2節で次の4つのことを語る。

① この人々が心を励まされること
② 愛によって結び合わされること
③ 理解力を豊かに与えられること
④ 神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため

”それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘めたる計画であるキリストを悟るようになるためです。”(コロサイ 2:2、新共同訳)

 これは教会の働きそのものである。

 ここで「労苦」と用いられている言葉の派生語は、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(ルカ 22:44)と「祈り」と関連して用いられている。

”すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。”(ルカ 22:43-44、新共同訳、後代の加筆と見られる箇所)

 教会が祈りの場であることに通じる。

 そこには教会の原型がある。

 聖なる苦しみと、俗なる弟子たちの眠りとが鮮明に対比される。

 教会を俗に傾けるのか、聖に傾けるのか、それは一人一人の信仰と召命に関わっている。

 コロサイも2つの面を持った教会として例外ではなかった。

 聖と俗の乖離にすら気づかない「教会」の陰の部分で労苦するのは、奥深いところでは、イエスその人であることに、気が付きたい。

 陰の労苦は、また神の労苦でもある。


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