2001.2.4、 神戸教会週報、降誕節第6主日
(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)
コロサイの信徒への手紙 1:24-29、説教題「苦しむことを喜びとし」
パウロは自分の”苦難”を、使徒としての活動にとって必然的な要素と見なしている。
”わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。”(ガラテヤ 6:17、新共同訳)
”苦労し、骨折って、…その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。”(Ⅱコリント 11:27-28、新共同訳)
そして、福音の啓示が輝くことと、苦難の奉仕の業とが至る所で結合している。
”宝を土の器に納めています。…四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず”(Ⅱコリント 4:7-8、新共同訳)
”悲しんでいるようで、常に喜び”(Ⅱコリント 6:10、新共同訳)
”苦難”が使徒の宣教に結びついていることは、次のように表現されている。
”わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。”(使徒言行録 9:16、新共同訳)
使徒が苦しむと言う思想は、パウロの場合、預言者像、エレミヤや第二イザヤに源流がある。
”わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられる者となってもよいとさえ思っています。”(ローマ 9:2-3、新共同訳)
ここには「逆説」がある。
身代わりの苦難という考え方にも近い。
ここから理解すれば、パウロの”苦難”は究極的に、ただ”イエスの死のみ”に結び付く。
”わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。”(Ⅱコリント 4:10-11、新共同訳)
パウロは、キリストの苦難を根本的に自分の使徒としての困窮とは区別している。
パウロは自分の困窮を通して、
① 自らも慰めを必要とし、そのことによって慰めることを学び、
② イエスの命に対する信仰が何であるかを自ら学び、
③ ”執り成しと感謝の交わり”が育つようになることを学んでいる。
さらに、パウロ後には、苦難の中での喜びについて語られる。
”あなたがたは心から喜んでいるのです。いましばらくの間、いろいろな試練に悩まねばらないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、…”(Ⅰペトロ 1:6-7、新共同訳)
さまざまな困窮よりもさらに強力な深層が存在するという重層性の体験が、キリストとの結びつきを確かなものとする。
しかし、パウロには”教会のために苦しむ”という発想は(24節後半)見られない。
”今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。”(コロサイ 1:24、新共同訳)
パウロの強力な影響下で書かれたコロサイ独特の表現である。
それは何を意味するであろうか。
「苦しむことを喜びとし」が教会生活の文脈で言われていることから、深い学びを得たい。
「キリストの苦しみの欠けたところ」とは、何だろうか。