説教と牧会の間(2001 宣教学7)

2001.2.2、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(7)

(神戸教会牧師24年目、牧会44年目、健作さん67歳)

1.「説教と牧会の間」というテ-マについて

 教会の仕事には、一人一人の人、つまり個人に関わる、お世話や相談や訪問や見舞いという仕事がある。多くの場合、普通の社会の人間関係のなかで、友人、先輩、教師、近所の人、親など、皆がしている範囲のことが大部分であるといえば言えなくもない。しかし、わざわざ「牧会(Die Seel sorger)」と言われることは、それが教会(信徒相互、牧師)の働きとしての自覚的意味合いにおいてであろう。「牧会とは、教会の説教において、一般的に、つまり、すべてのひとびとに告げられた福音を、特殊な形で、個人に伝達することである。牧会をどのように定義してみても、そこに現れて来るのは、教団全体とは区別された、個人という概念である。」(E・トゥルナイゼン『牧会学』p.13)ここでは、個人がどのように人間の共同性に関わるかという問題よりもはるかに、個人の内面が問題になる(例えば、末期癌の人にとって「人間の共同性」に関わる共同の責任というレベルでの関わりとは、区別された別な固有な領域を自覚せざるを得ない)。説教の持つ「人間の共同性」についての関わりが、宗教的観念と歴史的現実を逆転させないための歯止めについては、「『説教』の場としての『教会』の共同性ということについて」(前項)で触れた。そこでは「神学」で言われている真理契機を、人間学的に「神学」と互換性を持つ思想的言語、文学的・芸術的手法で体得契機を宿す領域での伝達の必要を訴えた。この体得契機が個人と個人の間では、信頼関係、自明なこととして前提できない相互の実存の分ち合い、基本的に共同性(国、血縁、教会)として客観化できないもの、「閉鎖性を破って、開かれた関係へと広がりの可能性を秘めた関係性」として、共有されていることを「信じる」「悟る」ことへの道程を「生きる」ことが、「説教と牧会の間」というテーマであります。

2. 聖書テキストでの検証

 マタイの19:30「しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる」、同じく20:16「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」を取り上げます。このフレーズは福音書に4箇所出て参ります。他の2箇所は、マルコ10:31(「金持ちの男」の話、マタイ19:16-30,ルカ13:18-30と平行している)、ルカ13:30(「狭い戸口」マタイ7:13-14,21-33と平行している)に出て来ます。これらは福音書中の文脈では、いずれも著者の編集句にある。マタイ(19:30)はマルコ(10:31)に依存します。マルコ、マタイ(19:30)は「多くの者」となっています。ルカ、マタイ(20:16)には、この限定の形容句はありません。しかし、ルカは「先の人で後になる者もある。」と多少の限定がついている。この言葉は、それぞれの文脈より古い言葉で、その言葉の役割は、それぞれの編集者あるいは文脈の物語の構成者の意図により決まってきます。元来の古い言葉の言い回しとしては、マタイ20:16が一番古いものであろうと推定されます(『ナザレのイエス』L・ショットロフ、W・シェテ-ゲマン著、大貫隆訳 p.61)。この古い言葉は、古代のある格言が変形したもので、「運命なんて一夜にして難なく変わる」という意味だったと言われています(『イエスの譬え』エレミヤス著、善野碩之介訳 p.39、なお、この格言の平行句については『ナザレのイエス』に詳しい。さらに、この句は「先」と「後」で社会的な位置関係を指しているとする意見もある(サイト記:参考文献不明)。

 さて、この格言を、マタイ福音書の文脈で考えてみます。マタイでは、富の問題、所有の問題がずっと続いています。これは、富を持つことがいけないということではなくて、「地上に富を積んではならない……富は天に積みなさい」(6:29-20)。「天」というのは「開かれている」ということです。「富の惑わし」という言葉があるように、富が災いして、自分を守るようになり、他者と関わりを持つ生き方から、先が閉ざされた生き方になっていまう、という点で、富への警告がなされています。6章の山上の説教の19節から34節で、宝について、マモン(富)について、所有の問題が共通分母になっている。マタイ10章9節から14節の派遣の説教では、旅の途上の自発的貧しさが、明らかに弟子達に対する基本命令になっている。13章22節の「富の惑わし」に対する伝統的な警告がそれに続きます。16章22節には「全世界[すべての富]を手に入れても……そのことはその人にとって何の助けになろうか」といわれ、その結びの文は、タラントの譬えによって強調されている。「何を食べ、また何を着ればよいのか……天の父の配慮にゆだねよ」とはマタイの基本線を示している。そして19章16-30節が続く。金持ちの青年とイエスの対話。イエスと弟子達との対話。このような流れの中で、ペトロが登場します。ペテロは、「なにもかも捨ててイエスに従って来た」と申します。「私たちは何もかも捨ててあなたに従ってきました」(27節)とペテロは言う。確かにペテロは「すぐに網を捨てて従った」(4章20節)と記されているから、ペテロにはイエスに従ったことへの自負があることが窺われます。この自負は大事です。一生懸命に従っているのです。マタイ福音書は、ペトロを大変大切に扱っている書物です。16章では、「ペトロの信仰告白」に対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてる」(16:18)と言われています。ですから、ペトロの此の発言を、イエスは受け入れる物語の運びになっているのです。ペトロが、持ち物を捨てて従った、その自負を「額面」で肯定しています。「あなたがたもわたしに従ってきたのだから、十二の座に座って……十二部族を治める(さばく=イスラエルへの批判)」。そして、「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、畑……を捨てた者は皆、百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と。ここまでは「信従」という事柄への評価です。ところが、問題は、最後に付加されている一節である。「しかし、先にいる多くの者が後になり」はこの評価に文脈上すんなりと続きません。なぜここにこの格言を用いたのかという疑問が残ります。格言は用いる文脈で、意味を持ちます。マタイは此の言葉で、20章の「ぶどう園の労働者」の譬えが導入されます。よく注意してみると、19章は、先なるものに強調点があり、20章では「後となるものに」強調点があります。一つの格言が、おかれた位置で、意味合いが異なってきます。19章は、ペトロが「自分は捨ててきた」という、自負を語ったことに対して、だが「しかし」という意味を持っている。これをここにつけることによって、すべては逆転する。19章16節以下の「富んだ青年」の物語においても、「みな守った」という青年に「持ち物を売り払え」と青年には不可能な要求をイエスがしたのと同じ水準で、「捨てた」と公言する弟子に、しかし、「先にいる多くのものが、後になる」と立場の逆転をマタイは宣言しています。そうして、もう一度26節の、「人間に出来ることではないが、神は何でも出来る」という神の可能性へと価値尺度の転換を促しています。

 ここからは、わたしの遊びと想像ですが、ここのペトロ像は、自負というものが災いすることに、微塵も気が付いていません。ペトロは、シャ-プで柔軟ではなく、むしろ、鈍くて頑固なイメ-ジをもっています。世俗のことは別にして、こと信仰(関係性)に関しては、私たちは例外なく、鈍くて頑固ではないかという自省を促されます。ここの聖書箇所の、最後の一節の「しかし」は編集者が、ペトロに代表されるような、教会の共同性を自明なものとして、強い立場から振る舞う者に対して、はっきりとした「否」を言っているように思える。「捨てる」ことが、他者との関係の中で意味を持たないで、宗教倫理的な意味での「よい行い」として自己完結な行為に属しているのであれば、つまり自分で、わたしは「捨てる」生き方をしてきたという自負を持ってしまうことが中心になれば、ほんとうには「捨てたこと」にならないことへの自省を求めたのであろう。それは、いみじくも福音書が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(16:24)と言っているように、「捨てる」とは、自分そのものを捨てることがたえず問われている。現代の教会でも(教会でなくとも、様々な共同体、組織、自治体、、国家で)共同性という自明の関係に乗って「手をよごさない」「建て前の神学で」「法の権威に寄り掛かって」先に立つものは多い。とすれば、一般的に語らざるを得ない「説教」は、かなりのスタンスにおいて、たとえ、肝心なところへ届かないとしても(副作用の程度を考慮しつつ)「自負するペトロを撃つ」という側面を含むこととなるであろう。

 マタイは20章で、「葡萄園の労働者」の譬えを続ける。この譬えを「分水嶺の両側-地主の慈善、神の前での平等」というテーマで論じるのは田川健三氏である。「職にあぶれる日雇い労働者の現実」に引き戻して読むか読まないかを厳しく迫る。「イエスはここで、本当はこうなっていいはずだが、という感覚を口にしただけなのだ。イエスのこの話に、本当はこうなっていいはずだが、という感覚を読取り、その感覚をもって現にそうはなっていない現実に立ち向かうか、それとも、神はそのように慈愛の深い者だという信仰を読み取って安心してしまうか、そのどちらにも傾斜指してしまう分水嶺に立っている」(田川健三著『イエスという男』p.222)という。エレミアス(前掲書 p.32)は第四エズラ5:42を引き、今日の譬えの解釈「すべての者が等しい」の根拠をあげる。

「彼は私に言った。『私は私の審判を輪のようにする。つまり最後の者たちもそこでは後にならないし、最初の者たちも先にならない』。最初の者と最後の者、最後の者と最初の者-そこには区別がなく、すべてが等しい。譬えのこの解釈が今日圧倒的で、つまりこの譬えは、神の国での報いは等しいことを教えるものであると。」

 しかし、これはそうではなく、「当然の支払い」であって、物語の重点は、最後の者への極めて大きい報酬にあるのだという。譬えが15節で終わるとすれば不快が残る。これに対して、16節の一句は付けられたので、譬えの総括的結語としては、譬えの意味と一致しないという。教会は敵対者に語られた言葉を今や、教会に向けて語らねばならない文脈があることを指摘するのがエレミアスの論旨である。

 一般的な語りである説教がこのような意味で、現実の共同体に対して、批判的視点を持たざるを得ない中で、個人のことに属する牧会も、その基本線はゆるがせにはできない(トゥルナイゼンが前掲書の中でダビデとナタンの関わりを挙げている)。ナタンにとってはダビデを生かすことが役目であった。共同性の一番底の役割であろう。説教と牧会の間を彷徨うものの歩みを、支える共同性の質を「教会」は保ちたい。

 捨てることは、関係を作ることなのです。自己完結の論理を主張する「富める青年」、自負だけが強いペトロ、はまた「自分自身、私」の投影ではないか、との思いを持ちながら、此のテキストを読みました。「金持ちが天の国に入るのは難しい」は、なるほどそうだという、弟子達への、認識情報ではない。つまり、知っておればよいということではなくて、自分のからを破り、関わりを持って行くための行動情報なのである。

『「捨てる!」技術』(宝島社 2000)という、最近流行の辰巳渚さんの本を読みました。

 私のように、もののない時代に育った者には、耳の痛い話ばかりが載っています。130ペ-ジ。辰巳さんが此の本で言いたいのは、物との付き合い方を真剣に考えるということ。物と自己との関わり方の意識化だと言っています。捨てることは、関係性のことなのです。自己完結にならないで、関わりの中で、自分が活かされることなのです。

 昨日、神戸聖書展の実行委員会があって、東京の展覧会のビデオをみせてもらいました。聖書の展示のなかに、夏目漱石、太宰治、芥川竜之介の使った聖書が映されていました。これらの近代文学者が実によく聖書を読んでいることに改めて打たれました。何処かで、お話をしていると思いますが、なぜか、芥川の短編『社子春』が思い起こされました。

 今日お読み戴いた、聖書テキストの前半には、「捨てる」ことをしないで「永遠の命」を得たいという、大変虫のいい「金持ちの青年」の話が出て参ります。19章の16節から22節までです。此の青年は大変まじめで、神の戒めである掟を皆守っていると申します。しかし自分で考えて、「みな守っている」というのですから、まじめな分だけ、閉ざされた心の在り方をしています。大変自己完結的です。自分の方は、やるだけのことはやっている、という破れのない、完結した考え方にたって、なお、何かを求めざるをえない。そこには大変なジレンマがあります。少し露骨な言い方をするなら、何も犠牲を払わないで、得るものだけは得る、という考え方の行き詰まりがそこには出ています。イエスは、そこを突破するためには、青年がどうすればよいか。これは21節に言われています。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる」。ここで言われていることは、「永遠の命」と言われる、生きることの充実は、誰かとの関わりによって初めて、得られるものだということです。ここでは、財産がネックになっていることが浮き彫りにされます。

 ここには、命の関係というものの逆説性、そこに至るまでの時間の経過、成熟性がよくでています。聖書の命が宿されています。「自分を捨てて、少しでもイエスに近付くことを祈り求めて参りたい」と存じます。