エマオへの道(2010 田中忠雄 ⑨)

2010.5.19、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑨」

(明治学院教会牧師 健作さん76歳)

ルカ 24章13節−35節(新共同訳 見出し ”エマオで現れる” マコ16:12-13)

1.「エマオへの道」は田中さん77歳の時の作品である。よく見るとキャンバスの左下に「79 83」の二つの年代が入っている。この作品が完成したのは1979年で、その後1983年に修正をしたものである。

 何処に筆を加えたのかは分からないが、たぶん田中さんは聖書のこの箇所の理解を、その3〜4年の間に深めたのであろう。

 この絵の題材になっている聖書箇所はルカ福音書24章であるが、共観福音書でもルカのみがこの美しい話を伝えている。

 画家レンブラントは有名な「エマオのキリスト」をこの箇所で描いた。

 描かれているのは物語の最後のキリストを囲む食卓の場面である。

(サイト記)美術館のサイトです。画像をクリックするとレンブラントの絵が拡大表示されます。レンブラントは「エマオ」「キリストを囲む食卓」をテーマにたくさん描いていますが、以下はそのほんの一部です。有名なのは下の3番目だと思います。

Pilgrims at Emmaus 1629、ルーブル美術館(外部リンク)
The Supper at Emmaus 1648、ルーブル美術館(外部リンク)
Pilgrims at Emmaus or The Supper at Emmaus 1648、ルーブル美術館(外部リンク)
The Disciples at Emmaus 1655、ルーブル美術館(外部リンク)

 田中さんは物語の半ば、エルサレムからエリコの道筋で弟子たちが旅人・実はイエスに出会う場面を描いている。

 私は実際エルサレムからエリコへの道を車に乗せて貰って通ったことがある。緩やかな下りの道で、季節は夏であったのだが、やはり荒涼とした風景であった。そのせいか到着したエリコの教会の咲き乱れた花がとても印象に残っている。

 田中さんのこの絵も荒涼とした道の風景が背景になっている。三人の人物の影を見るとまだ日が高いようだが、エマオへの道はどこか夕暮れへの漂いがあるように思える。

 空の雲と道が茶系統で彩られていることに拠るのであろうか。

2.物語を読むと、イエスの十字架の死後、エルサレムから抜け出てきた2人の弟子が、道々「一切の出来事」について話しあっていると「イエス御自身が近づいてき、一緒に歩き始められた」という。しかし「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とある。

 そこで一人のクレオパがエルサレムで起こったことをこの見知らぬ人に話して聞かせる場面が思い浮かぶ。次にその見知らぬ人、実はイエスが「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」といって受難のメシヤについて解き明かす場面が想起される。

 田中さんに聞く訳にはいかないのだが、クレオパがエルサレムで起こったことを「あなただけがごそんじなかったのですか」と迫るのに対して「どんなことですか」ととぼけるイエスの場面ととるのがよいのか。「心鈍いものよ」と弟子たちに迫るイエスの場面と見るべきか。迷うところである。僕は、後者と理解する。

 右側の二人の弟子がイエスの話の迫力に驚いている。3人の手の表情がよく描かれている。「受難」は迫力無しでは語られない。足に力が入っている。ここがこの絵の見所ではないか。

3.さて、テキストについての聖書学者の見解を少し記しておきたい。この物語は元来の伝承の部分と著者ルカが編集者として挿入加筆した部分が研究者の間ではかなりはっきりしている。

① 伝承は13節、15b節、16節、28-31節。
② 編集句は14-15a節、17-27節、32-35節。編集者ルカが何故編集句をつけたかに触れておきたい。

4.伝承は「食卓のイエス」を告げ知らせる。

 元来、宗教史的には旧約の神顕現物語が基礎にある。
「人格的出会い」か関心の中心にある。

「食卓を契機に覚醒される出会い」は、ルカではルカ9:10-17「五千人の給食」、ルカ14:12-14「貧しい者の宴会」、ルカ22:14-23「主の晩餐」などに示されている。

 イエスが食物の供給者、真理の教師、約束の告知者として描かれる。

「目が遮られて」(ルカ24:16)いた者が、「目が開けて、それがイエスであることが分かった、すると御姿が見えなくなった」(ルカ24:31)。

 ここには「復活のイエス(死を超えた生命・真実な人格・『神』)」との出会が証しされている。「さえぎる」「分かった(受動形)」は共に神によってという意味が含まれている。

食卓のイエスとの出会い」は神による不思議な出来事、恵みである。

5.編集句は徹底して「受難のイエス」を説く。

 ルカ 9:21-27節の継続。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23、マルコ8:34)

 弟子たちには、イエスが「十字架を負う」預言者の系譜にあることが全然分かっていない。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられないものたち、メシヤはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24:26)
「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)

 受難は弟子たちには躓きであった。

 編集句が「聖書の解き明かし」(25-27節、32節)を中心にしていることは「躓きが真理」だと強調しているのだ。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32節)

 伝承の「パンを裂いてお渡しになった」という見知らぬ人の所作にこれを繋げる。

「パンを裂く」はイエスの受難を意味する。

「その打たれた傷によってわれわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)

 とあるように、イエスに示された「神の受難」の根源性が「救い」としてわれわれを包む。

6.「時と永遠」「歴史と象徴」といったものの考え方からすれば、田中さんは、歴史や時の内側でこの物語を読んでいるし、レンブラントは永遠や象徴に重点をおいて読んでいる。

 この物語には両面があるのだと思う。

 田中さんは澄み切った青を使っているが、これは永遠や象徴を示唆しているように思える。
 絵そのものは物語の二重性を示していると思う。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

10.弟子の足を洗う

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