弟子の足を洗う(2010 田中忠雄 ⑩)

2010.6.2、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑩」

(明治学院教会牧師 健作さん76歳)

ヨハネ福音書 13章1節−11節

1、この絵は1980年の作品である。神戸YMCAのチャペルの入り口の上に掲額されている。神戸YMCAは1886年の創立で、やがて創立百年を迎える時期であった。

 恐らくこの運動体の在り方を方向づける意味で「弟子の足を洗う」聖書の絵を田中さんに依頼したのではないかと思われる。私はその百年記念礼拝の説教者に依頼されたが、この絵をもってその説教を締めくくった事を鮮明に覚えている。

 Yはポスターにこの絵を用いて、神戸の街にYの働きを印象づけたから街の人の心にも残っているに違いない。

2.田中さんは1957年に「ユダの足を洗う」という作品を残している。ユダもイエスも鋭い表情をしている。今日の絵はそれに比べると見守る弟子、そして足を洗われている弟子、多分ペトロであろうが、彼らの表情は驚きを示しているが穏やかである。イエスからは日常の姿が漂ってくる。

 構図は人の配置が逆算角でその下の一点に白い手ぬぐいが絵の中心点を担っている。色彩はテーブル、イエスの衣、手ぬぐいを白で浮き立たせ、足を洗われている弟子の衣だけをダイダイ色に目立たせて、緊張感を漂わせている。

 絵全体を左さがりにする事で立体感を出したところ、赤いスカ−フの女性の給仕をテーブルのこちら側にやや後ろ姿で配置してテーブルの向こう側とこちら側を繋げていることなどは、工夫された絵としての安定した構図である。

3.さて「洗足」はヨハネ福音書のみが記載する物語である。共観福音書に記されている「聖餐制定」の言葉がないから、ヨハネでは「洗足」がその意義を示しているのだと説明している注解書もある。

 しかし、これはもともと独立した物語であって、イエスが一日の旅を終えて宿泊場で休息をとる前に、その当時の習慣であった奴隷に足を洗わせるようなことを自ら行ったのではないか。

 これは奴隷のする仕事であった。そして「足洗い」は日常の営みである。人と人との関わりは日常の関わりがいかに大切か、まずそんな事を暗示している。その関わりは「奴隷の仕事」に象徴される様に、それが知らないうちに「階層性」あるいは人と人との「縦関係」を作ってしまっている。いわば「権威関係」「力の関係」である。

 それを破っていく事がイエスの存在そのものであった。それは「謙虚(フィリピ2:8)」であり「十字架の贖罪(10:45)」として説かれていることの象徴行為であった。普通、仕事というものには「下請け」がある。足を洗うには、手ぬぐいの用意が必要であるし、たらいを引っ張りだしてきて、水を汲んでこなくてはならない。物語の本文を読む限りイエスは全部自分でしている。

 仕事の責任は最後は自分で負うという心がけがなければ、チームでする仕事の誰かが後始末(尻拭い)をしなければならない。そこを含めての象徴なのではあるまいか。

4.田中さんの絵を以前の「ユダの足をあらう」と比べてみる。以前のユダの絵は背後の弟子たちの表情を薄くしてしまって、それにより強調点をユダとイエスとの関係に置いている。裏切る者に対してもなお愛をもって仕えてゆくイエスの強調である。

 しかし後の(この)絵は、弟子の表情を、驚きよりも、疑問を表すような表情にしている。これは、テキストの6−7節を意識しているのではないか、と思う。

「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
(ヨハネ13:6 新共同訳)

「主よ、師であるあなたが弟子である私の汚れた部分の後始末をしてくださるのですか」というと、イエスは答えて「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。(サイト記)健作さんの読み

 弟子たちの納得しがたい表情にそれがよく洗われている。「子を持って知る親の恩」ではないが人格的真理というものは、時間の経過のなかで熟成してゆくものである。

5.この箇所のヨハネのテキストの後半にはヨハネの神学がよく出ている。この画面で直接それを読み取るのは難しいかもしれない。それは14節の

「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ 13:14 新共同訳)

 という「洗足」の実践である。

 絵で強いてそれを読み取るとすれば、右上の二人の弟子が顔を見合わせている表情であろう。何か納得の表情をしている。

 神戸YMCAがチャペルの入り口に掲げている意味は、イエスが足を洗ったという出来事の事実(福音)の確かさを伝える意味と、もう一つは、その事実に応えて自分の人生を、他者のために用いることへの促しであろう。

 この絵はその両面を持っているところに意味があるのであろう。

 小磯さんの絵が物語の瞬間的描写であるのに比べて、田中さんの絵は強いメッセージ性を内に秘めている。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

11.塩になったロトの妻

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