腰に帯を締め(2009 礼拝説教・Ⅰペトロ)

2009.2.15、明治学院教会(145)降誕節 ⑧

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

Ⅰペトロ 1:13-16

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。”(Ⅰペトロの手紙 1:13、新共同訳)

1.「腰に帯を締めて」につき、旧約聖書の2カ所を覚えたい。

 まず、箴言。「力強く腰に帯し」(箴言31:17)。”有能な妻”という見出し(新共同訳)のイロハ歌(アルファベットによる詩)の一節にある。

 次にエレミヤ。預言者が語ることの根拠を言う。「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ」(エレミヤ 1:17)。

2.新約聖書では、ルカ福音書。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(ルカ 12:35)。

「帯」は、ルカでは終末論的信仰そのものの意味。生きる姿勢そのもの。終末を表す言葉「テロス」は目的と終着を同時に意味する。目的と終着はすでにはっきりしている。これが「帯」だ。

 ペトロの手紙 第一。「いつでも心を引き締め」(Ⅰペトロ 1:13)は、意訳。原文は「心の腰に帯を締め」。意訳では倫理的意味の緊張に受け取られかねない。聖書の直裁は雰囲気が伝わりにくい。

 古代では、外出や仕事にあたって、長く幅の広い上着を羽織った際、腰のあたりで帯を締めるのが普通であった。「帯」は当たり前のこと。その当然さが信仰の領域でも比喩に用いられたのである。

3.ペトロの手紙は、この終着と目的、つまり「憐れみの出来事」を1章3-4節で渾々(こんこん)と語る。

 3章4節の主語は徹頭徹尾「神」であることが特徴。

「帯を締める」とは、すでに神の出来事としての憐れみの内側にいる日常的事実の確認である。

 13節は、このことを「だから」の一語に凝縮させた。このような語り口が聖書では独特である。

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。”(Ⅰペトロの手紙 1:13、新共同訳)

”あなたがたは、神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。”(エフェソの信徒への手紙 5:1、新共同訳)

 直接法(…ですから)に続けて、命令法(…しなさい)を語る語りである。

4.ベルトの贈り物にまつわる思い出を3つ。

(1)神学校卒業後、最初の任地(広島流川教会)でのベルト。「しっかりやれよ」。

(2)牧会10数年、クリスマスに自作の革細工のきめ細かい模様のベルトの贈り物。「牧会の慣れを戒めよ」。

(3)結婚式を挙げた若いカップルからの立派なベルト。「くたびれと衰えの影は、周囲には目立つ」。

5.エフェソの信徒への手紙 6:13-17では「神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、…救いを兜とし…霊の剣、すなわち神の言葉を」とある。

 教会も1世紀を過ぎ、制度も確立してくると、信徒への戒めが一層必要になったのであろう。が、軍隊用語を不用意に使うのはいただけない。その神経は、軍隊の無自覚な肯定ではないか。「帯」は日常生活の「帯(ベルト)」であってよい。

6.安 昌浩(アン・チャンホ、1878-1938)。朝鮮の独立運動家。キリスト教徒。最後の言葉。

”わたしには、今死の恐怖はない。わたしの同胞が苦しんでいる。心が痛む。日本は戦争を、自分の力に余る戦争を始めたが、この戦争で必ず破れる。困難に耐えてください。日本の圧政がますます過酷になり、独立がいつ成就されるかわからないからといって、気を落とすな。待ちつつ、望みを抱け。”

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