ヨナ、海に投げ入れられる(2009 小磯良平 ⑮)

2009.2.18、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」⑮

(明治学院教会牧師、健作さん75歳)

画像は小磯良平画伯「ヨナ、海に投げ入れられる」

ヨナ書 1:1-17

 ヨナ書は紙芝居になる物語である。

「むかし、むかし、ヨナという預言者がいた。預言者のお役目は、神様(ヤハウェ、主)の言葉を人々に告げることであった。ある日、ヨナに主の声が聞こえて来た。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ、彼らの悪はわたしの前に届いている』」。

 小磯さんだったら、ベッドに休んでいるヨナに右上から光が差してそこに天使が語りかけている絵を描くかも知れない。

 2枚目はヤッファの港である。出港間際の船に乗り遅れまいと走ってゆくヨナがいる。彼は「主から逃れる」ためにニネベとは違うタルシシュ行きの船に乗る。

 3枚目は嵐に荒れ狂う船の中で、右往左往する乗船者たちがいる。クジを引いている。この災難は誰のせいか決めようというのだ。主の言葉に背いたヨナは、もうこの嵐の原因がピ−ンと来ている。皆のいる船室から逃れて船底に寝ていたが、クジが当たってしまった。一人の「逃亡」という選択は、他の大勢のひとの運命に関わっている。

 4枚目は、彼がことの経緯を皆に話して、白状しているところである。彼は「私の手足をとらえて海にほうり込むがよい。そうすれば海は穏やかになる。」(1:12)という。

 そうして5枚目がこの箇所の小磯さんの挿絵だ。

 船はいまにも難破しそうである。帆柱は折れ、帆が波にさらされている。


 ヨナが海に投げこまれる瞬間が描かれている。でも、闇一色ではない。

 右上から光が射している。小磯さん特有の構図だ。ここにも母子像が入っている。

 投げ込まれるヨナに光が当てられている、ここがこの絵の意味深長なところである。

 さて、その後、ヨナはどうなったか。

 2章はヨナの救助。主は巨大な魚にヨナを呑み込ませ三日三晩魚の腹の中に置かれる。これは、後の新約聖書ではイエスの死と復活のしるしとして使われてる(マタイ12:39-40)。ヨナは祈りを捧げる。詩文の長い祈りである。詩編137編のバビロン補囚の歌を思い起こさせる。ヨナ書は、民族の補囚を陰府(よみ)への下降として歌っている。

 主は魚に命じてヨナを吐きださせ陸に立たせ、再度「ニネベに行け」といわれる。

 3章は、ヨナが「ニネベは40日を経て滅び」と触れ回ると、ヨナの予期に反して、王以下が悔い改めたという記事である。

 4章は、ニネベを許す主(ヤハウェ)へのヨナの激しい怒りである。ヨナの座り込みの抗議が行われる。主は座り込みのヨナにとうごまの日よけを育てて与え、また枯らせ、それを比喩として、許しの普遍性の意味を悟らせる。


 ヨナ書は、時代からいうとイスラエルの補囚後の時代、イスラエルがペルシャによって解放されるが、十分な政治的独立は得られない憤懣の中で、宗教集団(ユダヤ教)として普遍的信仰を深めてゆくために課題を負った時代の作品である。

 執筆は紀元前400−350年ごろといわれている。物語の時代設定は、アッシリアのイスラエル占領時代(紀元前745-609)にさかのぼって、アッシリアの都ニネベを舞台として、ヨナという預言者(列王記下14:25)の名を借りて創作されている。被占領下、場面にペルシャ時代の都スサを直接使うことはできないので、設定には歴史を借りている。が、同時代へのユニークな示唆に富む文学的物語である。


 この書物では「ニネベの悔い改めとその救い」というテーマがある。

「当時、ペルシャ帝国には、今までの帝国とは違って、ゾロアスター教が広まっており、人間が善神アフラマツダを信じて、悪神アーリマンと戦うべきであると教えられていた。民族的宗教の次元を超えた、倫理的宗教が行われていたのであり、かつてユダヤ人がバビロン帝国のベルとかボルとかいった偶像を批判したことでは(イザヤ46:1-2)、ペルシャの宗教を批判したことにはならないという、あたらしい状況が生まれていることを示しているのである。ペルシャ帝国は……宗教的にも彼らの信じるところは十分に学ぶべき内容があったのである。」(木田献一「ヨナ書」(3:7-9)『新共同訳 旧約聖書略解』日本基督教団出版局 2001、p.993)。

 今までイスラエルは、ヤハウェ(主)の選びを一筋に信じ、その応答に生きればよかった。それに背信した時、国の滅亡という未曾有の歴史の経験をした。その苦い経験の筋道とは別に、ニネベへの神の憐れみという不合理を目の当たりにしてヨナは神に抗議をするが、その「不合理な憐れみ」を受け入れる苦渋を経て、普遍的救いを悟ることがヨナには求められた。

「本書の主題は神の不合理なあわれみに対するヨナの抗議をめぐるところの知恵文学と預言者的精神の相互浸透のすぐれた例である」(西村俊昭「ヨナ書」『新聖書大辞典』キリスト新聞社 1971、及び同氏『ヨナ書』日本基督教団出版局 1975)。

 ヨナ書を読んでいて、心に閃くイエスの言葉がある。

「父は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)。

 預言者の精神から言えば、悪、不正、不義、搾取、抑圧、殺戮が許されてよいはずがない。今の時代も。同時に、被造物のつながりから言えば、すべてが救いに与ることが知恵である。今の時代にこそ。

 ヨナが味わった葛藤はその両者の成立であった。預言者的であり、かつ宗教的悟り(知恵)を同時に、葛藤を含め、その二重性を生きることへと、現代の信仰者に課題を突き付けているのがヨナ書である。

 そういえば、小磯さんの絵はヨナが海に投げ込まれるにも関わらず、上からの光が描かれている。

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洋画家・小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ

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