悲しむ力、喜ぶ力(2009 礼拝説教・ロマ書)

2009.2.8、明治学院教会(144)降誕節 ⑦
▶️ 悲しむ力、喜ぶ力 − 人間は関係存在(2011 聖書の集い)

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

ローマ 12:9-13

”喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。”(ローマの信徒への手紙 12:15、新共同訳)

1.新約聖書の7つのパウロの真筆の手紙には、前半が信仰の理論、後半が実戦への勧め、という構造がある。

・ローマ(1-11章、12章以降)
・ガラテヤ(1-4章、5章以降)
・テサロニケ(1-3章、4章以降)
・フィリピ(1-3章、4章以降)

 建築に譬えれば、構造理論と意匠設計。その全体が「設計」であるならば、教理と倫理の全体が「福音」であろう。

「すべて良い木は良い実を結ぶ」(マタイ 7:17)とある。

2.ローマの信徒への手紙 12章9-13節は、主として教会員同士の間の在り方。

「愛には偽りがあってはならない」。この「愛」には定冠詞がついているから「(神の)愛は偽らない」が直訳。神の愛が働いているあなた方の「愛」には偽りがあってはならない。いやあるはずがない。神の愛が働く「愛の生き方」とはそういうものだ、と語る。

「偽りのない愛」(Ⅱコリント 6:6)は、初期教会の最も大切な福音の結実であった。外の世界が如何に偽りで塗り固められた世界であったかを想像する。

3.ローマの信徒への手紙 12章10-13節では、10の勧めが一息に語られる。

 私どもはこの言葉で、思い起こすことのできる、聖書の言葉の証人を、歴史の中に与えられている。それは大きな遺産である。

 例えば、誰々は「祈りの人だった」というように。

「貧しい聖徒(13節)」とはエルサレムの教会のこと。異邦人教会であるローマの教会が、自分たちの信仰理論(信仰義認)だけで「強い教会」になるのではなく、支援に取り組むことでエルサレムの教会が担ってきた信仰の歴史的遺産につながる貴重な機会なのだ、「貧しさ」への援助は共に神の恵みに与ることだ、とパウロは力説する。現代でも援助は決して一方的なものではない。

「旅人をもてなす(13節)」は寄留の他国人に宿を貸すという旧約の伝統であった(申命記 10:18-19)。

4.ローマの信徒への手紙 12章14節以降は、教会の内部から外部に対する関わりとなる。

 信仰を異教社会で貫けば、迫害者とぶつかる。イエスの山上の説教の言葉「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ 5:44)」が切実に思い起こされている。

「呪ってはならない。祝福を祈れ(ローマ 12:14)」。イエスの振る舞いを凝視する以外にこの言葉は聞けない。

”あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪っては成りません。”(ローマ 12:14、新共同訳)

 いわゆる規範としての倫理・戒律・律法では無力だ。喜びと悲しみは、人間の心の、最も具体的で深い表現である。イエスの振る舞いそのものである。

 愛する弟子ラザロの死に直面して涙を流した(ヨハネ 11:35)。

 カナの婚礼の席では、味の良いぶどう酒をもって一座を祝福された(ヨハネ 2:1-12)。

 今の世の中、毎日、悲しいことでいっぱいだ。

 悲しみとは何か。人間の心が通わないこと。関係の喪失。

 それは「神」とは「関係そのもの(愛)」であるからだ。

 悲しみと喜びのあるところに神はいまし給う。「悲しむ力」は神そのものの力である。十字架のイエスの存在そのものの力である。そこに与ることが、逆説的に喜ぶ力となる。

5.かつて新聞の投書で読んだ「お葬式にトランペットを吹いた娘さんの話」の「悲しむ力」の自由さが、心に残っている。

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