悲しむ力、喜ぶ力 − 人間は関係存在(2011 聖書の集い・パウロ ⑥)

2011.10.5「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第21回「新約聖書 パウロの言葉から」⑥
ローマの信徒への手紙 12:9-13

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

1.「喜ぶ人とともに喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉は、新約聖書パウロの「ローマの信徒への手紙」の後半部にある。

 すでに紀元50年代はじめにはローマ帝国の首都に、ギリシャ人キリスト者・一部ユダヤ人キリスト者を含む混合教会が設立されていた。パウロはまだ訪れたことのない教会である。ぜひ訪問することを願い、自分の福音理解の集大成を、この教会の信徒に手紙で送った。

 思想的な自己紹介でもあるので、論理的・構造的にも整ったものになった。ある種の完結性がある。しかし、計らずもこれがパウロの「遺言状」になってしまった。この手紙は、パウロの福音理解をキリスト教の中心に据えた場合、キリスト教の歴史では大事な書物として扱われてきた。これは16世紀のフランスの宗教改革者J.カルヴァンが「この手紙を理解するものは、全聖書を理解する扉を開く」と言ったことなどに起因している。

 7つのパウロの真筆の手紙には、似たような構造がある。前半が信仰の理論、後半がその信仰に基づいた実践への勧めというパターンである。ロ−マ(1-11章と12章以降)、ガラテヤ(1-4章と5章以降)、テサロニケ(1-3章と4章以降)、フィリピ(1-3章と4章以降)。

 建築に譬えれば、前半が構造理論・後半が意匠設計。その二つを含めて「設計監理」というものがある。前半を「教理」とすると後半は「倫理」といえる。宗教には深遠な真理があるが、それが日常の生活に生かされ、滲み出ていなければ意味はない。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(マタイ7:17、新共同訳)」と言われる所以である。

2.今日取り上げた言葉は、そのローマの信徒への手紙の12章9−13節の中にある。

 手紙全体から見ると「倫理」を説いた後半部分である。説かれた対象は、一般社会への教えというよりも、ローマの信徒の間で守るべき倫理としてまず説かれている。まず信仰共同体の中での在り方である。

「愛には偽りがあってはならない」。この「愛」には定冠詞がついてるから「あの愛」つまり「(神の)愛」を意味する。直訳すれば「あの愛は偽りがない。あの愛は真実である。あの愛は風を装わない」とでも言うべきか。

ローマの信徒への手紙 12:9-13、新共同訳

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 神の愛が働いているのだから、あなたの「愛」は偽りではない。特に「べきではない」と倫理的教訓の性格を持っているわけではない。この言葉はすでにコリントの教会に対しても言われた言葉である。「偽りのない愛」(コリント二 6:6)。よほど基本的なことであったに違いない。この言葉から逆に考えれば、当時のローマの世界が、帝国を成り立たせている人間関係において、たくさんの偽りで塗りかためられた世界であったかを想像する(現代の日本社会はどうなのか)。

3.ローマ 12章10節〜13節は、およそ10の勧めが、一息に語られる。パウロもこの言葉を語る時、そのように生きた人々のことを心に描いて語ったに違いない。

 例えば「怠らず励み」では、そんな人がいたのであろう。13節の「聖なる者たちの貧しさ」はエルサレムの教会のこと。異邦人教会であるローマの教会が、自分達の信仰の理論(信仰義認)だけで「強い教会」に成るのではなく、支援に取り組む事でエルサレムの教会が担ってきた信仰の歴史的遺産につながる貴重な機会なのだ、が言外に含まれている。「貧しさ」への援助は、共に神の恵みに与ることだ、とパウロは力説する。現代でも援助は決して一方的なものではない。「旅人をもてなす」は、寄留の他国人に宿を貸す旧約の伝統であった(申命記10:18-19)。

4.14節以下は、教会の内部から外部に対する関わりとなる。

 信仰を異教社会で貫けば、迫害者とぶつかる。イエスの山上の説教の言葉「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」が切実に思い起こされている。「呪ってはならない」「祝福を祈れ」。イエスの振る舞いを凝視する以外にこの言葉は聞けない。

 いわゆる規範としての倫理・戒律・律法では無力だ。喜びと悲しみは、人間の心の、最も、具体的で深い表現である。イエスの振る舞いそのものである。

 愛する弟子ラザロの死に直面して涙を流した(ヨハネ11:35)。カナの婚礼の席では、味のよいブドウ酒をもって一座を祝福された(ヨハネ2:1-12)。

 今の世の中、毎日、悲しい事でいっぱいだ。

 悲しみとは何か。根底で人間の心が通わない事。関係の喪失を意味する。それは「神」とは「関係そのもの(愛)」であるからだ。

 悲しみと喜びのあるところに神はいまし給う。

「悲しむ力」は神そのものの力である。十字架のイエスの存在そのものの力である。そこにあずかる事が逆説的に「喜ぶ力」となる。

5.「悲しみを忘れた社会は成長せず」(野田正彰 精神科医・関西学院大学教授。東京新聞夕刊、2011/7/15)

 野田さんは、日航ジャンボ機墜落事故の遺族に取材して『喪の途上にて』(岩波書店)を出版した。阪神淡路大震災でも現地に足を運び「悲しみに共感する力」の大切さを語ってきた。東日本大震災で「頑張ろう」のコールばかりが目立つことに強い批判をもち、怒りの声を挙げている。

(サイト記)上記で引用された野田正彰さんのメッセージは東日本大震災から4ヶ月後、本テキストは東日本大震災から半年後のものです。お二人は16年前の阪神淡路大震災の仮設生活を支援する活動以来の仲です。

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