生きて働く言葉(2009 礼拝説教・Ⅰテサロニケ)

2009.2.1、明治学院教会(143)降誕節 ⑥

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

Ⅰテサロニケ 2:13-16

”事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。”(テサロニケの信徒への手紙 一 2:13、新共同訳)

1.プロテスタント教会の礼拝は「説教」(宣教、主の福音、証言、告知などとも言われる)を中心に置く。良い意味でも、悪い意味でも、「言葉の宗教」である。その「説教」の聖書の箇所・テキストはどのようにして決められているのか。

2.礼拝説教のテキストの選定は、多くの教会では、説教者に委ねられる。ある教派では、教会暦で決まっている。

 大方の決め方はほぼ三つある。私の場合も三つを組み合わせて用いてきた。

(1)第一、教会暦・聖書日課を用いる。
 教会暦は、一般暦(季節暦、生活行事暦)に対して、信徒の信仰生活のために配慮して作ったきた伝統的な年間の暦。待降節、降誕節、受難節(レント)、復活日(イースター)、聖霊降臨日(ペンテコステ)、三位一体主日、他に教会行事暦が加わる。

(2)第二、自由選択。
 メッセージの発信者としての「教会」(説教)が、状況(聴衆)との関わりの中で自由に、時に応じて、テキストを選択する。主題説教となる。

(3)第三、連続講解。
 聖書を構成する各文書の一つを選び、連続して構解(exposition)する。テキストの歴史的文脈を明らかにし、それを現代の文脈(コンテクスト)で解き明かすという方法である。地味だが一番よく用いられている。

3.説教の本質は、聖書テキストについての解き明かしが「神の言葉」として受け入れられること。説教者自身は欠けの多い器。

”わたしは汚れた唇の者”(イザヤ書 6:5)
”ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。”(エレミヤ書 1:6)

 説教の内容は、説教者の思想や生き方の表白ではない。「福音といわれる(イエスにおける)神の出来事」を語る。「福音」として締め括られる仕方が、すでに聖書を構成している文書において多様である。

4.今日のテキストには「神の言葉」が三回使われている。

 第一は「説教」のこと。語られた言葉。
 第二は、受け入れられた「神の言葉」。
 第三は「福音の事件の繰り返しの出来事」。

 パウロはこの全てを「感謝」という。

5.聖書は、一つの全体であっても、同時に部分が全体を表す。

 田中正造が亡くなった時、マタイ福音書の分冊だけを持っていた。

”義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである”(マタイによる福音書 5:10、新共同訳)

 マタイのこのテキストは、田中正造の全生涯を表している。

6.「生きて働く言葉」の「働く」は”エネルゲイン”。

 テサロニケの信徒には「神の言葉」が働くもの、「命」と結びついていたことが、驚くべきことであった。

7.癌の闘病の牧師に、ご自身の説教を聴くことを勧めたことがある。

 ご自分の説教は、人の言葉に過ぎない。自画像のように自己嫌悪を誘うものでもある。しかし、なおそれを超えて、聴く者を包む言葉の力を宿している。

 それは、説教者が教会によって立てられているからであろう。

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