最後の晩餐

2009.7.22

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第26回「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」
マタイ 26:17-29、マルコ 14:12-25、ルカ 22:7-20(ヨハネ 13:21-30)

1、「最後の晩餐」の画像といえば、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)をまず思い浮かべる。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれた名作である。人々の興味はまず、イエスを裏切ったユダはどこにいるのか、に示される。イエスの左4番目だといわれている。「最後の晩餐」は絵画史的には、6世紀のモザイクが最初だとされている。そのモチーフは「聖体拝領」(ミサ、聖餐式)であった。修道院の食堂には必ずといってよいほどに掲げられていたという。しかしルネッサンス期以後は、イエスが裏切り者を告げるモチーフが圧倒的に多い。『最後の晩餐』(ファイドン社刊)には100点近い「最後の晩餐」の絵が載ってるというので、私も見てみたいとの思いがあるが、そこまで調べることはできなかった。インターネットで検索したところ、ファン・デ・ファネス、マールテン・ド・フォス、マルチン・ショーンガウア一、アンドレア・デル・サル卜、ギルランダイオ などの作品が散見できた。

(サイト補足:以下はパブリックドメインの画像です)

ダヴィンチ
ギルダイオン
マールテン・ド・フォス

主題はイエス及び弟子たちの間に交差する心理の表現が中心とされている。構図は平面に描かれた横長のテープルに一同が並ぶか、何人かがこちら側に描かれていたりする。ユダの描きかたは特徴がある。他の弟子には頭の光輪があるのにユダだけはなかったり、財布(巾着袋)を所持していたり、裏切りの色を意味する黄色い衣であったり、一人だけこちら側だったりする(直ぐ出られる「便所席」)。

2、小磯さんは、多分このようなヨーロッパの構図は十分知っていたであろう。その伝統とは全く違った構図を取っている。ここは凄い。テーブルを上斜めからに見取り、菱形に取って、画面の中心をイエスのテーブルの手の位置に重ねた。絵の上部は建物の入り口と二階に上がる階段を配して、人影を描かず、そこから外部との隔たりを想像させ、外の世界の喧騒との隔離感を出している。外は、イエスへの敵意に満ちたエルサレムの街である。

 さらに、イエスの背後に空間を取り、その空間を白くして、何か光源を暗示する。さりげなくイエスの「聖性」を表す思いが受け取られる。ユダをイエスの向かい側におき、顔をやや後ろに背け、困惑の表情を描く。弟子たちの視線は三様に分かれる。ユダを見つめる者たち、イエスになぜと問い掛けるまなざしの者たち、各自思案する者たち。イエスはもはや視線でのやり取りからは外れ、独りうなだれて、出来事の推移の悲しみを黙想している。祈っているのであろう。この場面はユダの裏切りを告げる瞬間の表現であることは間違いないのだが、画面の左下の影の部分と、画面上の光の部分とが対象を為し、「聖と俗」「光と陰」「神と人」の対象が隠喩のように盛り込まれている。

3、小磯さんは「パンとブドウ酒」を意識して、この絵を描いたに違いない。イエスの手に囲まれているパン、イエスの前のグラスのブドウ酒だけは赤で描かれていることなど、後々の「聖体拝領」あるいは「聖餐」を象徴しているかのようである。もしかしたらコリント第一(11:23-25)のテキストも念頭にあったかもしれない。

 4、日本聖書協会の挿絵聖書にはヨハネ福音書のテキストは上がっていない。何か訳があるようだ。それはユダについての記述であろう。「わたしがパン切れを与えるのがその人だ」(ヨハネ13:26)とある。他の福音書は「わたしと一緒に」「鉢に食べ物を浸した者」(マタイ、ルカ)、「手を食卓に置いている」(マルコ)となっている。ヨハネを直接画像に表現している絵はどこかにあるのであろうか。

5、小磯さんの絵にはどこか遊びがあるのが面白い。テーブルの左端の弟子は驚いて立上がり、簡素な椅子が後ろにひっくり返っている。瞬間の光景をよく示している。どの弟子を予想していたのであろうか。12人の位置の詮索をしていると長い物語になりそうであるが、画いた小磯さんには一人一人の個性が心に留まっていたに違いない。
 それなくしては、顔の表情は画けないであろうから。

6、現代の聖書学はこの記事をどうみているのであろうか。この食事はユダヤ人が出エジプトの出来事(出エジプト記 12章1節以下)を記念して焼いた種なしパンと屠った子羊の血とが、それぞれ十字架で引き裂かれるイエスの身体と血とに等置され、とりわけこの血が、人間のために「罪の赦し」(マタイ福音書 26:28)として流される「契約の血」であるといわれている。しかもこれが終末論的に解釈され、イエスが神の国の到来と再臨のキリストとして聖宴を開き、そこで「新しく飲むその日までは」ぶどう酒を飲むことをしないとなっている(マルコ 14:25) 。この記事は教団の祭儀を「生活の座」とした、ユダヤ教過越祭のキリスト教化であるとの指摘を荒井献氏はしている(『イエス・キリスト』講談社 1979)。

7、いずれにせよ、この絵は、挿絵の中でもよくできた絵である。祈るイエスがよい。


(サイト追記)小磯画伯の絵はサイトには掲載できません。